一般論考をひたらすら考えていてもその考えは事象に対する論考に落とし込むことはできない。
いくら考えていても実際に行動すれば問題にぶちあたり違う方法論を取らざる得なくなる。
その点は今回の1.4年の出来事で理解できた。
でもいくら考えて行動しても見えない視点やその場合にやらなければいけないことが出てくる。
その視点にどうやって気がつくべきなのだろうか。
あと、ニーチェの思想を学んで気がついたことは
ニーチェ時代、ヨーロッパではニヒリズム的思考が蔓延していた。
具体的に言えば絶対なる神は死に大きな物語や絶対的な力はないと。
その時、ニーチェは永劫回帰なる思想を打ち出し、それはただの現在自分ができないことや手に入れられない事はひがみにしかすぎないと。
だから私は永劫回帰を受け入れ、言わば受動的ニヒリズムから能動的ニヒリズムを見いだし力なる意思を作り出さなければいけないと。
ある意味カツマー理論より最強だな。
結局若い世代は無限なる可能性を秘めているがそれは有限なる可能性にしかすぎないし、どうしても社会的リスクを考慮し意思決定しなければいけないと。
しかし、意思決定したところで実際に自己実現なる精度をあげていかなければどの選択肢を選んでも最終的にはそれすらもニヒリズムにしかならないのではないか。
また、オイディプスの神話ではないが、父親や親は自己の状況と私の状況が違うのだから意思決定を行う際に参考になる可能性は低い。
結局、如何に早く行動しある壁にぶち当たり軌道修正していくかどうかが最終的な問題である。
以上。