作中、サルトルとボーヴォワールは決して並列では扱われない。「夫」の名は全共闘世代へのアッピールにすぎない、とは言い過ぎか。「ボーヴォワールかくして『第二の性』書き上げき」と要約できる。サルトルには関係のないシーンはあるがボーヴォワールに関係のないシーンはない、という素朴な証左をここでは挙げよう。
アメリカ人作家との比較で、サルトルの肉体的弱点が強調されているのも、実存主義の理解を助けるかもしれない。だがそれ以上に、あからさまには憎むことのできない、多少歪んでいるがそれでも愛には満ちている父母など、彼女の闘おうとした相手の闘いにくさが、強烈・新鮮ではなくとも鈍く反復される。内容は、テーゼとその論証の過程ではない。背景、著作の冒頭で書かれるような公式な背景ではなく、カフェに漂う煙を含むような、背景だ。