2011-09-15

何か「スゴイものを観ちゃった」感で腹いっぱいの「緑子/MIDORI-KO」クロスレビュー このエントリーを含むはてなブックマーク 

 いや、もう「何かスゴイものを観ちゃった」としか言いようが無い。
 「緑子/MIDORI-KO」というタイトルも、webなどで紹介されているキャラクターたちも正直どうでもイイ。シチュエーションとか説明とか謎解きとか一切カンケー無しで構わないと思う。ただスクリーンを眺めて、眼に映るものを脳みそに伝え、面白かったら笑い、恐かったらコワがり、哀しかったら泣き、詰まらなかったら腹を立てればいい。観たものを受け入れそのまま脳髄反射する。そういう映画なんだと思う、この「緑子/MIDORI-KO」ってヤツは。
 
 話のスジはどうやらどこかの博士的なグループがつくった、食い物的なMIDORI-KOを、とにかく年中腹空かせているキャラクターたちが、喰うために奪い合う、まあ、そんな感じだ。そもそも「MIDORI-KO」ってネーミングでさえ、ミドリさんちに飛び込んできた子どもみたいなヤツ程度の意味合いなんだろうが、深読みすれば聖書での幼きイエス・キリストの呼名「みどり子」であるかもしれない。腹空かせている連中にとっての救世主。
 
 でも、くどいようだがそんなことはどうでもイイ、と観終わってから思う。
 主人公らしきミドリさんが操縦するリヤカー的な乗り物が、アクセルを踏むとバタバタ動き出したりするワクワク感。日よけの傘のメカニカルな作動の気持ちよさ。アパートの異様な外見とへのへのもへじの社長が作る臭いたい肥のノスタルジイ。アパートなのに旅館のような風呂場。あ、もしかしたらこのアパートは元旅館を改造したのかもしれないな。
 妙にマッチョな博士軍団とキモい唄。女子高生には見えないけど女子高生にしか見えない何者か。もうホントわけわぁいしぇjねg。(←みたいに説明付かん!)

 科学も化学も錬金術も世界観はそのまま黒坂監督の脳みそを具現化したものかもしれない。ワケ判らんけど面白くて目が離せない。したがって「ナンかスゴイもの観ちゃったなあ」という感想になるのだ。
 
 思い起こせば昔から黒坂映画はそうだった。ナンかワカランけどスゴイ何かがあって目が離せない。理解しようとしても無駄だから、もう脳髄反射に任せるだけ、と言う感じ。
 
 あ、ちなみに学生時代ワタクシは黒坂監督などと共に、あるアニメーションのグループに所属していて、自主上映なんかやっていたのですだいぶ昔の話ですけど。だから、今、この「緑子/MIDORI-KO」を観て、あんまり変わってないな、と思ったのだ。
 
 いや、テクニックやグラフィックは圧倒的に進化してるし、以前の作品に比べると遥かに「解りやすい」ともいえる。でも、根本にある「何かスゴイもの」であるという点においては全く変わりがない。30年間変わっちゃいないのだ。
 
 さて、その「解りやすい」部分は、先ほど挙げたように書き連ねることが出来る。ある時は空想科学漫画であり、ある時はコメディであり、ある時は幸せなホームドラマのようでもある。というわけで、この「緑子/MIDORI-KO」は、単に映画=アニメーションという手段でつくられてはいるけれど、その中見はジャンル分けするのが無意味な「何かスゴイもの」でいいじゃないか、と思っている。
   
 物心ついたばかりのコドモから、天に召されるのも近いご老体まで、全ての人類に向けての、観た人それぞれの神経に直接作用する。これは黒坂監督の脳みその中身の具現化映像なのだろう。個人的にはミドリさんと同棲してみたいです(笑)。
 
 さて、余談だがほぼ同時期に、山村浩二監督という同じくインデペンデントなアートアニメーションを手がける作家の作品「マイブリッジの糸」が公開されるのを、ご存知の方もいるだろうと思う。どちらも映画のひとコマだけを抜き出しても鑑賞に堪えられるほど「画ヂカラ」が強いと言う点で共通しているところがある。
 
 そして山村監督も同時期に、同じアニメーションのグループに属していたわけで、両方を知る、そして両方を観た感想を言えば正直、山村監督も「変わっちゃいない」タイプの人だった。テクニックではなく、芯がブレていない骨太の作品を観せてくれる。
 
 ただ、山村監督は黒坂監督ほどサービス精神が豊富ではないので、結構難解な映画になっている、と思う。したがってどちらがイイかという話は無粋なのだ。どちらが好きか、と言うのなら、それはヒミツだけど。

 

キーワード:


コメント(0)