「緑子/MIDORIKO」を観て、まず第一に思ったのは、画面上に横溢する『過剰感』である。登場人物の旺盛な食欲、ほとばしる吐瀉物や排泄物の描写はいうに及ばず、手書きによる細かい線描画は「たんねんに」というありふれた言葉では収まりきれないほどに細密かつ荒々しいタッチにて『過剰感』を演出している。ひとつひとつの絵のつくりが丁寧であるだけに、いやまして画面いっぱいに広がる『過剰感』が一種グロテスクな祝祭的空間を際立たせている。作者の意図がどのようなものであるかは想像するしかないが、この『過剰感』の表出が白日夢のようなイリュージョン効果を一層引き出すことに成功していることは間違いない。
この映画を観ているさなかに、私の古い記憶のなかに眠っていた、かつて観た映像が鮮やかによみがえってきた。それは松本俊夫が制作した「fly」という短編映画である。1970年代半ば頃、当時『個人映画』という言葉でひとくくりされた実験映画をひとまとめに公開した、所謂「インディペンデント・フィルム・フェスティバル」なるイベントに好んで参加(観客としてではあるが)した私にとって、松本俊夫や田名網敬一、萩原朔美などの映像作家は憧れの存在であった。なかでも、松本俊夫の「fly」は複数の会場で繰り返し観たこともあって、深く記憶に刻まれている。画面上で両手を大きく広げ飛ぶしぐさをした人物らしき影が、延々とはばたくしぐさを繰り返す数分程度の短編映画であったが、単純な繰り返しのなかで絵柄の動きや音響のバリエーションの工夫がなされ、画面に見入ったものである。このときの記憶が、「緑子/MIDORIKO」を観ているさなかに突然よみがえってきたのである。両者に何か通ずるものがあるとすれば、それはある種の『過剰感』であったような気がする(なお、映画のエンディングロールの末尾で、おそらく協力者への謝意であったか、クレジットに川上美映子に並んで松本俊夫の名をちらりとみかけたが、制作に関与しているのであろうか…)。
ところで、映画観賞中に気になったもうひとつのことは「マンテーニュの星」である。太田曜氏も指摘しているように、確かに謎だらけである。イタリア・ルネサンス美術の世界において、アンドレア・マンテーニュは有名な画家であり、特に宗教画では「死せるキリスト」や「オリーヴ山上の祈り」が代表作として知られるが、日本人には昨年公開された「カポディモンテ美術館展」において会場入口で真っ先に目にするフレスコ画「ルドヴィコ(?)・ゴンザーガの肖像」の作者であるといえば、思い当たる人が多いであろう。しかし、マンテーニュの画風と黒坂作品の傾向については、全くといっていいほど共通点が見当たらない。何をもって作者は1万年に一度の機会に地上を照らすとされる星に、15世紀に活躍した中世芸術家の名をあてたのか?
「マンテーニュの星」…… もしかして「満天の星」の語感もじりでは? まさか……?
しかし、仮の話であるが、もし、そんな親父ギャグ的なユーモアでもって、観客に謎かけを仕掛けているのだとしたら、私はこの監督のセンスに脱帽してしまう。単なる思い付きではあるが、心の奥ではひそかに、そうあってほしいと願っている自分がいるのである。