「人は人生の最後の日々に何をするのだろう。」―― これは黒澤明監督が半世紀以上前に『生きる』で問うたテーマであり、かつ、イニャリトゥ監督が『BIUTIFUL』で「最も描きたかった」ことでもあろう。イニャリトゥ監督は19歳のときに『生きる』を観て衝撃を受けたという。思い起こせば、私もほぼそのくらいの年頃に初めて『生きる』を観て深い感銘を覚えた。今から40年近くも前のこと、場所は京橋のフィルムセンターであったように記憶している。
国柄や時代背景はいうに及ばず、主人公のキャラクター設定も大きく異なることから、両作品を比べるのはあまり意味のない行為かもしれぬ。それでも、『BIUTIFUL』が『生きる』のテーマを現代に継承した物語であることは衆目の一致するところであろう。
イニャリトゥ監督は、このヒト・モノ・カネが国境を越えて往来するグローバル時代における、21世紀版『生きる』を描くことに成功した。しかし、それはクロサワの描いた20世紀版と比較し、随分と苦い後味を残すものにならざるを得なかったようだ。
私が『BIUTIFUL』で最も衝撃を受けたのは、最後の結末である。主人公ウスバルが最期に望みを託したアフリカ人女性イヘのとった行動――そこに現代に「生きる」ことの困難さ、残酷さを思うのである。
聖書の一節にこんな話がある。エルサレムからエリコに下る道で旅人が追剥にあって重傷を負うが、あるサマリア人が介抱し、旅人を宿屋に連れて行き宿の主人に金を渡して世話をしたという。これはルカ伝にある「善きサマリア人」という有名なエピソードで、祭司もレビ族の男も見て見ぬ振りをして通り過ぎるなかで、日頃はユダヤ人と犬猿の仲で知られるサマリア人のとった行動こそが真の隣人にふさわしいとの教訓話に用いられるのであるが、この話に触れるたびに、私はこう想像する――もし、宿屋の主人がサマリア人から渡された金を旅人の世話に用いずネコババしたら、どうなったのだろう。サマリア人の善意は報われず、この教訓が後世に伝わることもなかったのではないか、と。
ウスバルが「善きサマリア人」になり損ねた、というつもりはない。現代はそれだけ生きにくい時代だということだ。バルセロナ空港の搭乗口手前で振り返るイヘの表情が、底知れぬ深い哀しみに満ち溢れた眼差しが、何よりも物語っている。そのような結末に導かざるを得なかったイニャリトゥ監督の鋭敏な時代感覚と人間観察の奥行きの深さに、何かしら共鳴するものを覚えるのである。