2010-10-02

『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』クロスレビュー:様々な感情の交錯が、シームレスに肉体をたゆとう永作博美の演技に注目 このエントリーを含むはてなブックマーク 

「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」は佳品である。東陽一監督の他の大作と比すれば小品ではあるが、心なごむ佳品である。
何よりも俳優陣が良い。主役の浅野忠信は言うに及ばず、他の脇役陣が充実していて、とりわけ、アルコール病棟の患者を演じる志賀廣太郎、北見敏之、光石研など、彼ら個性派の演技を観ているだけでも、楽しめる。なかでも、女医役の高田聖子には何ともいえないリアリティがあり、その存在感の際立ちには、ほれぼれするほどだ。
そのなかにあって、なおかつ、もう一人の主役、由紀を演じる永作博美は秀逸であった。この映画の成立それ自体が由紀役に彼女を据えた時点で半ば成功している、といって過言でないほど、キャスティングの勝利を思わせた。
演技が過剰ではない。あふれるばかりの様々な感情の交錯がシームレスに彼女の肉体をたゆたい、その様子がスクリーンを通した表情の微妙な変化にうかがわれる。
怒り、憎しみ、嘆き、悲しみ(そして哀しみ)などの負の感情も、喜び、慈しみ、切なさ、いとおしさ、などの優しい感情と混じり合い、交錯し、演技者の表情を形づくっていく。
感情の振幅が激しい役柄を演じる役者に求められる手法として、心の移ろいの継ぎ目をはっきり見せることで、「演じる」ことの効果を際立たせるやり方があり、それはそれで正統な手法であるといえるのだが、この映画での永作博美はその手の演技法を採用しない。
あまりにも深い絶望、地獄を這いずり回るような辛さ。何度でも何度でも希望と落胆と諦念を繰り返してきたことで積もりに積もった心の疲労感…
由紀が経験したであろう様々な《思い》が、永作の肉体をたゆたい、現在から過去へ、過去から明日のささやかな希望へと、時間軸においても全く継ぎ目を感じさせずシームレスに往還している。そうした心のあり様を、観客はスクリーン上でみつめ、自ずと感情移入し、共感し、由紀に応援のエールを送るのである。
それはある種の心地よい体験でもあった。そして、二人の子役の自然な演技と、エンディングテーマの清志郎の歌にも助けられ、映画が終われば、応援され、励まされているのは、実は私たち観客であったことに気付くのである。

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M.-Cedarfield

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