5月1日、水俣で行われた水俣病犠牲者慰霊式。
各社の記事で紹介されている、緒方正実さんの「祈りの言葉」。
記事に紹介されていない部分も含めて、読んでもらいたいです。
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昭和32年12月28日、女島漁村に生をうけました。
祖父は急性劇症患者で、チッソに命を奪われ、祖父と生まれかわるようにして、この世に生をうけた妹は、胎児性水俣病患者として苦しみの人生を強いられてしまいました。家族は水銀の毒におかされていました。
私の毛髪から2歳当時、226ppmの水銀が検出されるほど、チッソが水俣湾に垂れ流した有機水銀によって、私や緒方家の未来が大きく左右されてしまいました。文明社会の掟とはいえ、あまりのもむごい出来事です。
熊本県はこの事実を知っていたにもかかわらず、38年の間、(私を)積極的に助けだそうとせず、平成8年、やっとの思いで申請した政治解決で、無残にも見捨てられてしまいました。
どうしても納得できない私は、水俣病とともに生きてきた自身を証明するため、10年におよぶ闘いの日々へと変わっていきました。
一人の人間として行政に見捨てられた私が、どんな思いで当時暮らしていたか、言葉にできないほど辛い日々でした。
10年の訴えのすえ、平成19年3月15日、潮谷義子・前熊本県知事から、2666番目の患者認定をうけました。知事の全責任において、私を救い、ふつうの生活に近づけてくれたことは、当然のことといえ、正直、一度見捨てられた行政に救われた思いです。
しかし私の人生は、50年のときが過ぎていました。水俣病の被害にあった一人の人間が、救済されるまで50年のときを要したことは、社会のしくみに問題があるのです。
水俣病は本人申請主義と、公害健康被害補償法で定められていますが、法律は何のためにあるのでしょう。
世の中の全ての人が、安心して、幸せに暮らせるために、法律があることを決して忘れてはなりません。
昭和31年、日本の経済白書が、もはや戦後ではないといった時代、
経済優先し、水俣病という世界に類をみない公害をかくしてしまったことは、わが国の失敗、一企業の責任にとどまらず、戦後復興にむけて、日本の政策に問題があったことは、隠しようのない事実です。
水俣病の政策に重大な過ちをおこし、水俣病事件へとかわっていた歴史があります。公式確認から55年、争いはたえることがなかった。
しかし全ての人の願いは一致していた。一日もはやい解決でした。
水俣病問題を大人社会のわれわれは難しくしてしまい、日々、悪化へとたどった歴史があります。
一年前の今日、特別措置法が開始されました。
一年たったいま、多くの被害者が落ち着きをとりもどしたのも事実です。
しかし、置き去りにしている問題がいくつかあります。
被害にあいながら、未解決のままなくなられた人たちの問題もその一つです。
その責任はどこにあるのでしょう。
5月1日を水俣病公式確認の日とし、手をあわせて祈るだけでいいのでしょうか。
私たちは、水俣病から何を学び、教訓として、世の中に伝えていかなければならないのか、なくなった声明からつきつけられていることを、忘れてはなりません。
胎児性患者の今後の課題、チッソ分社化による今後の行方、水俣病が今後どうなっていくか、チッソ、行政、被害者を含める社会のそれぞれが、水俣病をどう向き合っていくかだと思います。
矛盾をのこしたまま、水俣病事件を引き渡していいのか。我々の時代に、こうした努力によって、矛盾を解決し、次の時代を生きるこどもたちに教訓として、引き渡さなければなりません。
原発事故は、水俣病発生当時を思い出し、胸がはりさける思いです。
水俣の教訓がいかされていたのか疑問に思います。
先祖が大切にしていた自然を破壊したこと、どうわびればいいのでしょうか。
水銀の被害にあい、苦しみながら命を奪われた魚、鳥、すべての生命に祈りをささげ、命の尊さを世界に伝えるため、実生(みしょう)の枝でこけしを塗り続けています。
資料館語り部の一人として、世界の人に、水俣病の悲惨さを伝えながら、現在1800人あまりの人に伝えてきました。
水俣病と53年生き続け、様々な出来事と出会うなかで、正直、健康被害と引き換えに、チッソから、人間として、大切な生き方を教えていただいたような気がします。
今後、水俣病が悲惨な出来事として、歴史に刻まれていくのか。
人類にとって、貴重な出来事として刻まれるのか、今後の水俣病は、今の時代を生きる私たち一人ひとりに背負わされていることを忘れてはなりません。
水俣病で失われた全ての生命にご冥福をお祈りするとともに、一人の生き証人として、事実と真実を世の中に伝え続けることを、今日ここにお誓い申し上げ、祈りの言葉といたします。
平成23年5月1日、水俣病患者遺族代表 緒方正実
※聞き違いがあるかもしれませんが、ご了承ください。