1980年代、私が学生だった頃、ケネス・アンガーは、自主映画界の神様のような存在だった。その当時、新宿や渋谷にあった小さな映画上映スペースでは、毎週のようにケネス・アンガーの独創的で奇抜な内容の短編が上映され、映画を芸術と信じていた、(自分も含む)青くさい映画青年たちを集めていたものだった。
だから、89年にケネス・アンガーの本「ハリウッド・バビロン」が出版されると聞いたとき、彼の映画に心酔していた者たちは、映画に関してどれほど面白いものなのか、期待は大きかったはずである。ところが、内容の面白さは、映画青年たちの期待は少なからず裏切るものだった。この本には、ケネス・アンガーの芸術性のカケラすらも見られないものだったからだ。その頃から、アンガーの悪魔的な思想やホモ・セクシャルな感覚が知られるようになり、次第に昔の映画青年からも、映画好きな若者からも、ケネス・アンガーの名前は聞かれなくなった。皮肉にも、「ハリウッド・バビロン」はアンガーという稀有な映画作家を埋もれさせてしまう要因になったのだ。
それから20年以上経ち、熱烈な映画好きが、映画オタク、と呼ばれるようになった今、手にする「ハリウッド・バビロン」の内容は、映画が芸術となる夢を追わなくなった私たち「旧映画青年」たちにとっても、今の映画オタクたちにとっても興味が惹かれる、心踊らされるくらいに面白いものだ。
この拙文のタイトルは、「ハリウッド・バビロン」の一巻目の最初の項に出てくる、ケネス・アンガー自らが記した、ハリウッドの真実を表現した一文を抜粋したものである。それを紹介したのは、これだけで、この「ハリウッド・バビロン」の内容を、これから読む人に分かってもらえると思ったからだ。
この二巻にも渡る長大なペーパーバックには、トーキー前からのアメリカ映画界で活躍した男優や女優、プロデューサーや映画会社を興した者たちに至るまで、さまざまな映画人たちのスキャンダルが散りばめられている。小悪魔のような女にもて遊ばれたチャップリン、男遍歴に明け暮れていたジョーン・クロフォード、ルドルフ・バレンチノやエロール・フリンといった当時のアメリカのアイドルたちの顛末、さらにケネディ家とハリウッドの関係や名作「市民ケーン」に登場する謎の言葉「ローズ・バット」に関する驚愕の真実….、と驚くようなハリウッドの住人たちの行状が描かれ、それによって転落していく憧れられていた男たちや女たちの人生の物語は、まさに、天国と地獄の間を綱渡りで歩く様のようだ。
読む人にとっては、ただ呆れるだけの内容、と思うかもしれない。しかし、元アイドルが覚せい剤で身を滅ぼしていく日本の芸能界や、自殺者が毎年のように出る韓流スター界の現実が目の前にあることを思うと、この本の内容は、映画オタクならずとも、興味深いものであることは間違いないはずだ。
私は、この「ハリウッド・バビロン」全巻を読んで確信したのは、あのケネス・アンガーも映画オタクだった、ことだ。
ケネス・アンガーが映画の世界に入った頃、大衆的なハリウッド製作のものが多かった一方、ドイツ表現主義に裏打ちされた個性的な映画を好む映画人も多かった。そんな映画に心酔したアンガーは、自分を表現する手段として、次々と短編を発表していった。ヨーロッパでは、アンガーは評価されたのだが、ハリウッドでは一部の者にしか受け入れられず、アメリカ本国では捨てられたような存在だった。そんな中で発表されたのが、この「ハリウッド・バビロン」だった。
私が、アンガーも映画オタク、と思ったのは、この本からアンガー本人から沸き起こる、映画への愛情、を感じたからだ。愛を高めれば高めるほど憎悪も募る、と言われたり、裏切られた女には執着心が募る、とも言われたりするように、辛辣に役者たちのスキャンダルを綴られた「ハリウッド・バビロン」の文章の行間から、著者アンガーのほとぱしるような男優や女優への愛、裏切られた映画界への愛が見えてくる。週刊誌やワイドショーなどでスキャンダルを報道する側は、やった者への非難と蔑みがあるが、「ハリウッド・バビロン」にはそれがほとんど感じないからだ。ハリウッドへの尊敬と愛があるからこそ、これほどの本が書けたのではないかと思う。だからだろうか。私は、二巻を読み進めていくうちに、いい映画を見た後のほのぼのとした温かさを、胸に感じたのである。それは、3Dなどと技術革新が進んでも、コマーシャル・フィルムのような映画が今だに多い、映画界の現状に憂う映画オタクたちの思いにあい通じるものがあるからかもしれない。
最後に、「ハリウッド・バビロン」二巻目に記されている、ある有名男優が自殺する前に書いた、印象的な遺書の一文を紹介しておこう。私は、これはひょっとするとアンガー自身のこの世への捨て台詞、もしくは今もハリウッド映画界に暮らす者たちへの警告かもしれない、と思う。いや、ある意味、我々現代人への強烈な一撃とも言えるだろう。
「親愛なる世間のみなさん。お別れだ。もううんざりだ。この甘美なる肥溜めの中で、悩みながら生きてくれ」