※重要なネタバレ、あります。
主人公のジャン(ピエール瀧似)が、チンピラと化し、南京の雑踏を歩くロングショットに、矢崎仁司は戦慄を覚えたという。
これには自分も同感。
ただ、矢崎の、<この映画を見て、(渋谷の)雑踏を歩くのが快感になった>という旨の発言には即座に違和感を覚えた。
自分は、この映画をシネマライズで観終えて渋谷駅に向かうたびに、怒りと悲しみを覚えていたからだ。
尊敬する年下の友人は、「怒りはとっくに通り過ぎた」と言っていた。彼がどんな感情を抱いているか、知らない。わからない。
ただ、ぼくや矢崎より余程先へ行っていることは確かだ。
さて、問いです。
Q:瀕死のジャンは、なぜ助かったか。
A:「人」の居るところへ、雑踏へ向かったから。
南京の街を行く人々の、死に掛けでうずくまるジャンへの冷たい視線が印象的だ。
ジャンは結局病院で手術を受け、助かる。
もちろん、街の誰かが、救急車(に相当するものが中国にあるか知らない)を呼んだか、医者のところへジャンを運んでいったにちがいない。
つまり、「雑踏」が「ジャン」を救ったのだ。
これは「意識の流れ」「空気感」ではなく、厳密に「シナリオ」「脚本」「プロット」あえて言うなら「物語」に属し、そこから演繹されることがらだ。
『灰とダイヤモンド』の主人公よろしく、瀕死の状態で、人のいない所、瓦礫の山(?)へ行ったならば、ジャンは「美しく」死んだだろう。
ということで、ジャンは「雑踏」に恩義があるので、「雑踏」の人ごみを見て「快感を覚える」ということはありえない。
そこには、もっと複雑な感情が去来しているはずだ。
関連リンク:
「スプリング・フィーバー」──みせもんぞめき!
http://d.hatena.ne.jp/dark_side_01/20101203/1291398154