『バスキアのすべて』(以下、本作)の出演者であり、バスキアの友人で彼と同世代のアーティスト、そして現在は映画監督のジュリアン・シュナーベルは1996年にその名も『バスキア』(Basquiat)という、ジェフリー・ライト演じるジャン=ミシェル・バスキアを主人公にした映画を制作している。
ドキュメンタリーである本作と異なりシュナーベルの『バスキア』は、彼の人生を、幼いバスキアが美術館を訪れるシーンから始めて、ホームレスからスターに上り詰めて27歳で夭逝するまでの期間を、基本的に史実に即しながらも、物語調でドラマチックに描いた映画である。
一方本作は、バスキアが既に世間的に認知されてアーティストとしての「ピーク」も越え、死を2年後に控えた25歳時に撮影されたインタビューを基礎として作られている。
幼少期から死までを一つのスパンとして捉えたシュナーベルの『バスキア』と異なり、本作は彼の人生についての説明はイントロダクションで早々に済ませてしまう。それは主に、基礎となる映像資料が25歳時のものに限られていることにも因るが、同時に「夭逝した天才画家」というモダニズム的な「美談」に映画を終始させることなく、彼の人生の一瞬を切り取ることで「バスキアの素顔」を明るみに出したいというタムラ・デイビス監督の意向にも因るものだろう。
本作においてバスキアが夭逝したことは周知の事実であり、むしろ夭逝したことや、シュナーベルの『バスキア』によって築かれた天才画家のイメージが強まりすぎたことに対する警鐘として、本作では彼の発した言葉を、周囲の人たちへの取材によって裏付けるかのように、深いところまで追跡しようとする構成意図が見られる。
さらに、洗練された映像美のためにはカットされるような映像もカットされず、むしろバスキアの人間性を伝える印象的な場面として本作では前面に打ち出されていた。
そうした本作の試みは、一言で言ってしまえばバスキアの生の姿を伝えることだ。
「夭逝した天才画家」であったり「マイノリティで反社会的な孤高のアーティスト」であったりしたはずのバスキアが、実は幼少時代に「英才教育を受けて」いて「ストリート暮らしのころ、ガールフレンドの家を転々と」していて「コム・デ・ギャルソンのショーに出演」したこともあり「銀行に口座を持っていなかった」などといった本作公式サイトの添え書きは、彼に対する保守的なイメージを打開しようとする志向性を感じさせる。
そうしたイメージを証明するかのように、本作で登場するバスキアはカメラの前で多彩な表情を見せる。時には微笑んだり、時には踊ったりする彼の姿は、友人がインタビュアーを務めていたことによる安堵感の表れだとしても、映像を通して彼を見る観客の目に、バスキアを「夭逝した天才画家」というよりは、むしろ「普通の優しい若者」として印象付けるだろう。
そうした「生身の人間像」を描く手法はドキュメンタリーとしては常套手段であるが、本作においてそのことがパフォーマティブな意味を帯びてくるのは、出演者としてバスキアに加えて、彼の恋人や友人、アート関係者が選ばれていることから導かれる。
それは一方で個人的に親しかった人たちの「生身の視点」と、彼とアートを介して関係し合う人たちの「天才画家を見る視点」に大別することを促し、それら二分した視点とバスキア本人のインタビュー映像を編集上でフラットに並べ合わせることで浮上する従来のバスキアに対するイメージとの齟齬を生み出そうとする。
本作は、一方で「夭逝した天才画家」であり、一方で「普通の優しい若者」だったとされるバスキアの、特に前者のイメージを作り上げることに寄与した人物が彼の周囲に友人、アート関係者の区別無く存在し、そのイメージがもたらした恩恵を示唆する志向性を土台に持っている。
周囲の人の証言やバスキアの言葉から見えてくるのは、「スター」としての自我の持ちようのなさと葛藤に他ならない。それを示すことにおいては、近しい人たちに行われたインタビューは成功していたと言えるが、バスキアの「天才画家」のイメージと、結果的にバスキアをドラッグと死に追いやった業界人を含む周囲の人たちの「欲望」に対しては、本作は「示唆的」であるに留まったと言った方が適切だろう。
シュナーベルの『バスキア』と同様、バスキアの「人間性」を描き出すことにはうまくいった本作であるが、もしタムラ・デイビス監督の次回作か、他の監督によるものだとしても、バスキアを扱ったドキュメンタリーの続編が作られるのであれば、そのときは甘い英雄伝としてバスキアを「消費する」のでなく、バスキアの死の背景に迫ることで、1980年代のスター「バスキア」を生んだアート業界と、その後脈々と続く現代の「スター」たちにさえ切り込めるはずだ。
繰り返しを恐れずに言えば、本作はシステマチックに「スター」が作られた一例を「スター」自身の言葉を以て「示唆」している作品なのである。