今迄アップリンクで配給してきた作品でどの作品がベスト3だと思いますかと質問をされれば、デレク・ジャーマン作品と自分がプロデュースした作品を除けば、アパルトヘイトを描いたオリバー・シュミッツの『マパンツラ』、トルストイ原作でチェチェン紛争を描いたセルゲイ・ボドロフの『コーカサスの虜』、そしてパレスチナの自爆攻撃者を描いたハニ・アブ・アサドの『パラダイス・ナウ』を挙げるだろう(公開順)。そして、今度公開するロウ・イエの『スプリング・フィーバー』をそこに加えることになる。映画のテーマで言えば、他の3本は、政治問題を描いた作品だが、『スプリング・フィーバー』は、一見政治とは関係のない、“愛”をテーマにした映画だ。しかし、下記のインタビューでもロウ・イエが述べているように、「愛の自由とは、政治の自由の問題」であるのだ。
日本はというと中国とは違い、とりあえず一党独裁国家ではなく、民主主義国家という事になっている。ならば、“愛”の自由はあるのか、この日本で。中国と違い、政府と違う意見を言う自由、表現の自由は保障されているのだから、愛の自由は保証されているはずであるのだが、その権利を行使せずに、制度化された愛に甘んじている人が多いのではないのか。本来、個人が人を愛することとは国家が管理する事はできないことである。そこで、ロウ・イエも言っているように“愛”とは別ものの“結婚”という社会を安定する仕組みを国家は作り、人々の自由を管理しようとする。
唐突では有るが、今年に入って、僕は仮想の敵を「勝間和代的」なもの、「広瀬香美的」なもの、あるいは「J-POP的」なものに勝手にする事にした。本人に会った事はないので、本人を敵とするのではなく、あくまでメディアの露出によって知る「~的」なものを敵とすることは断っておく。
なぜ、それらを敵とするのか、それは、人の行為全てをお金に換算して、費用対効果で論じる「勝間和代的」なもの、婚活、モテる、ハッピーを全面肯定する「広瀬香美的」なもの、そして、逢いたい、癒し、人生の応援を唄う多くの「J-POP的」なるものだからである。簡単に反論しておくと、愛は金には換算できないし、婚活やモテの条件に愛は1番目に存在しないし、ただ逢いたいというのでは人を愛することに必要な孤独の耐性度が低すぎる。
賢明なwebDICE読者の方々はそんなことはとっくに承知で、「~的」なものを敵視するなんて、なんと大人げないことかと思われるかも知れないが、2010年、敵の勢力は衰えるどころかますます増してきているように思う今日この頃なのだ。ようするに「~的」なものの方が圧倒的に売れているのが今のこの日本なのだ。
今迄、アップリンクでは、先に挙げた映画のように、アパルトヘイト、チェチェン、パレスチナ、ビルマ、チベット、ユーゴスラビア、アフガニスタンなど世界の様々な政治的問題を作品とした映画を積極的に配給してきた。それらの問題はアパルトヘイト政策は撤廃されたが人種差別問題は無くなっていない事を含め、全ての問題は現在進行形の問題だ。しかし、この日本では、そんな問題は遠い国の問題で、なにが一番の問題かと真剣に考えた結果「~的」なものの価値観が主流になっていることが最大の日本の問題だと言うことに改めて気づき、それを敵としてアップリンクは映画配給をすべきだと決心したのだ。
この闘いの主戦場は“愛”である。このテーマなら日本においても遠い国の問題ではなく、少なくとも多くの観客の興味のある戦場である。そこでアップリンクが闘えば、敵の勢力を減衰する事ができるのではないかという壮大な目論見が『スプリング・フィーバー』の配給なのである。多分このことはまだ社員は知らない。
「愛の自由とは、政治の自由の問題」とは共産党一党独裁体制の中国では命題として成立するだろう。以下のインタビューで脚本家のメイ・フォンが述べているように中国では価値観の多様性がないので、愛の自由も認められないということになるのだが、価値観の多様性がとりあえず保証されている日本では、自由であるはずの個人が同じ価値観に囚われる事を拒否せず、むしろ同じ価値観になびこうとする傾向があるのは、どうしたことなのだろうか。
それは、言ってみれば愛の自由を自分で奪う事にならないのか。それを先導している、あるいは洗脳しているのが先にあげた「~的」なものではないのか。なにをオーバーなというかもしれないが、僕は、今この問題が日本の文化状況の一番の問題だと思っている。
断っておくが、僕は、個人個人の特定のあの人と一緒にいたい、結婚したい、自分がハッピーでいたい、寂しいから特定のあの人に逢いたいという個人それぞれが持つ感情を否定しているのではない。特定のパーソナルな「あの人」や「自分」が欠落し、結婚したい、逢いたい、ハッピーという、あくまで個人に属すべき感情や思考を、マスに対して一つの価値観で売りつけることを敵視しているのである。
その責任は一方的に価値観を与える側に有るのか、受け取る観客に有るのかと言えば、僕は与える側の責任は大きいと思っている。人々が、寂しい気持ちや逢いたい気持ちをツイッターでつぶやきブログで書くのはいいが、本当のクリエイター、アーティストならば、その個人の感情を突き詰め、本質を見つめ、他の価値観とは違うオリジナルの価値観を持った作品にしなくてはならないのを、あまりにも安易に大衆の感情に迎合した作品が多すぎると思う。そこには、価値観の多様性がなさ過ぎる。
まあ、価値観の多様性なんてはっきりいって商売の邪魔である。一部のブルジョア相手のオーダーメードのオートクチュールよりも、ラグジュアリーブランドは空港の免税店で大衆相手に同一の手に入りやすい価格帯の既製品で商売する方が儲かるように、マーケットが求めている一つの価値観を人々に与えて商売した方が儲かるのは当然である。
しかし、ここが有限会社アップリンクの社長としては難しいところである。映画館にはお客を集めなくてはならない。僕は、本音は、観客に「群れるな、個であれ」と言いたい。しかしそれでは、映画館に多くの観客はこなくなる理屈だ。ただ、映画というのは暗闇の中で見るものだ、そこは個になる場所で、決して群れる事が出来ない場所だ。暗闇を商売の場としているのは他にはプラネタリウムくらいしかないのではないか。お化け屋敷もそうか。暗闇が個になる場所であるのなら、それを商売の場としているのはまだなんとかなるのではないか。「群れるな、個を確認する場として、映画館にきてほしい」と言えば、アップリンクの商売も成立するのではないか。『スプリング・フィーバー』に限って言えば「制度化された愛を捨てよ、映画館に行こう」となるのかもしれない。まあ、言ってみれば儲けるシステムに批判的な僕がアップリンクの社長をやっていられるのも、群れる事を拒否し暗闇で見る映画を商品としているからとも言えるだろう。
というわけで、いろいろ理屈はこねたが、アップリンクの“愛”の戦略兵器である『スプリング・フィーバー』をぜひ観てほしい。最後に価値観が限られていわれる中国でもそれに抗う人はいる事をロウ・イエが話してくれたエピソードで紹介しておこう。
ロウ・イエが当局から中国国内での5年間映画製作と上映の禁止を命じられたのは、2006年にカンヌ国際映画祭で『天安門、恋人たち』上映されて数週間後ロウ・イエの事務所に電話が有り知らされた。電話から数日後、ロウ・イエの事務所に当局からの若い役人がやってきて、賞状のように紙を両手で掲げ、読み始めようとするのだが、その若い役人は「ロウ・イエ監督、僕はあなたの作品が好きです」といい、ロウ・イエは「わかってるよ、仕事なんだから早く読めばいい」と答え、その若い役人は当局が下した5年間の製作、上映禁止を告げたという。
また、『スプリング・フィーバー』はロウ・イエが審査員も務めたこともある「南京インディペンデント映画祭」にカンヌでの上映後出品されグランプリを取った。グランプリを与えた審査員も反骨精神があるが、そこで、受賞記念上映を南京郊外の映画館でする事になった。中国では、商業映画館は当局の管理下にある、本来なら製作禁止期間中にゲリラ的に撮影したロウ・イエの映画は上映が出来るはずもないのだが、その映画館主は「グランプリ作品を上映しなくてどうする、責任は自分が取る」といって上映したという。
プロモーションでの来日中、ロウ・イエはノーベル平和賞を受賞したリュウ・ギョウハについて何度もコメントを求められたが、それには「どんな人間にも言論の自由というものがあります。それを禁じることはあってはならないと思います。たとえ『08憲章』に問題があるにせよ、あるいはないにせよ、そのために刑務所に入れるということは個人の自由を侵害していると思います。このことは憲法に違反しています。そしてその自由には映画を撮るという権利も当然含まれます」と答えていたが、今言った事は記事として書いてもらっていいが、「ロウ・イエ、ノーベル平和賞受賞のリュウ・ギョウハ幽閉の中国政府を批判!」みたいな見出しにはしないでほしいと言ったのでインタビューしたメディアにはそこは注意してほしいと伝えた。でないと、また、中国での映画製作禁止が延長される可能性がないとも言えないのが今の中国なのだ。
さて、翻って日本に戻ると、政治的自由は保障されている、ならば“愛”にとって、なにが自由の障害なのか、「~的」なものなのか、他人と違う事、多数に属さない事を恐れる個人の心の問題なのか。「〜的」なものの受け手の問題として、根底にあるのは、人はすべからく“孤独”な存在であるということを見つめないことが 問題ではないかと思う。ようするに現在の都市に住む人々は、孤独に対する耐性度が著しく落ちているので、宗教にすがるように「〜的」なものにすがるのではないか、その結果が自由な愛が束縛されている原因だと思う。近年、とみにそう感じるのは、評論家的に言えばテクノロジーで安易に他人と繋がる事ができることができるようになった反動なのかも知れない。 そして、その弱さを突いてというか、はたまた表現する側も衰えているのかわからないが、映画や音楽の歌詞の表現の質が著しく衰えているのは、一言で言えば、観客をバカにしているのだと思う。そうでなければ、応援とか癒しなんて言葉は偉そうで、そういわれた時に拒否するはずだ。例えば大ホールで観客相手にユニゾンで合唱させるところには、価値観の多様性という美意識など皆無で、売れれば勝ちのシステムに囚われてしまっているのだろう。 僕は、この売れれば価値というシステムに対抗して違う価値観を提示するには、個人の極パーソナルな独自のオリジナルな言葉しかないと思っている。ただ、表現者たるもの、140文字で語る事の出来ないパーソナルな言葉を深く追求して作品へと昇華しなければならない。
『スプリング・フィーバー』でロウ・イエとメイ・フォンが描こうとしたものは、そういった日本の状況とはずっと遠いところにある「愛の自由」だ。その自由は手に入れた瞬間に不自由をも強いるというものである。その矛盾する「愛の困難」さを、自明の事としてわかったものだけが描けた映画である。ゆえにリアルな映画である。なぜリアルがいいのか、それはそこに“生命の力”があるからだ。
最後にもう一度宣伝です。「~的」なものの浸食を食い止めるためにも『スプリング・フィーバー』を観てください。よければ感想を「スプリング・フィーバー」という文字をいれてツイートしてください。皆さんの感想を読むのが楽しみです。
ロウ・イエ監督と脚本家のメイフォンのインタビューはこちらから
http://www.webdice.jp/dice/detail/2695/