ここは、これから見る方のためのプレビユーなのだから、ある程度の物語やこの作品の個性を際立たせているような代表的なシーンを紹介するべきだ。しかし、この『白いリボン』に関しては、それをすることが実に難しい。と、言うのも、全編においてほとんど説明的なものが少ないうえに、監督ミヒォャエル・ハネケがそのシーン、演出への回答を観客にあずけてしまっているからだ。つまり、物語やシーンの話をするのは、この作品をこれから見る人への興味を、むしろそらせることになってしまいかねないのだ。実に難しい映画をハネケは作ったものだと思う。
それでも映画の中身の話をしないと意味がない。物語は第一次大戦前、北ドイツの素朴で小さな村である日、医者が自分の玄関先で張られた針金にひっかかつて大ケガを負うところからはじまる。そこからの話は、起こった事件の羅列になる。農民の妻が転落死、知恵遅れの子どもの失踪など…。なぜ大事件にもかかわらず羅列的に登場するのか。その理由は、この映画を解説する、物語内の唯一の説明者である若い教師をはじめ、村人たちが事件に対して正面から向き合おうとしないからだ。実は、そこにハネケ監督が提出した観客への重要なメッセージがあり、この作品そのものの核があるのだ。
素朴な村、という外見であっても、映画の内容から浮かび上がってくるのは、村社会にある閉塞性や、当時の教会に持ち合わせていた厳格な社会性だ。そこには、人間的な優しさなどあるはずもない。正面から事件に向き合わないのは、そんな村や教会に暮らす人々同士が絆ではなく、互いに疑いの目でしか相手を見ようとしないからなのだ。この映画を見終わったあと、本当に恐ろしいと思ったのは、このハネケが描いた村は、その当時では決して特殊ではないこと。さらに言うなら現代社会、たとえばすぐデモに参加する若者が大量に出没する中国や、会社組織を厳格に大事にしようとする日本の社会性に、とても似ていると感じたからだ。この映画、評価を高いのは当然だろう。これだけ、人間社会や人心に普遍的に持ち合わせている恐怖を鋭くついたものは、他にはあまりないからだ。
私は、この映画を見ている最中、ランス・フォン・トーリア監督やイングマール・ベルイマン監督の一連の作品を思い返していた。トーリア監督の作品には閉塞的な人間社会を見つめる目があった。そしてベルイマン監督には「神の沈黙」から、教会社会への批判的な目があった。ハネケ監督の今回の映画には、そのふたつの目で人間社会を照らし、閉鎖的になりやすい現代社会に対して、痛烈な皮肉さえもこめて警鐘を鳴らしているように思う。ただ、普通に淡々とスクリーンを見ているだけでは、そのハネケの意図やメッセージ、この映画の良さそのものを感じとることはできないだろう。これから見る方には、ひとつひとつのシーンや演出をじっくりと吟味し、自分たちで昇華する能力が必要だと思う。その意味ではこの映画、ハネケ監督から観客に投げかけた、映画を見る上や現代社会に暮らす上での、難しい練習問題という側面もあるのかもしれない。