この映画って、障害者をめぐる社会問題とか、そういう話ではないと思う。
また、殺人の動機を障害者の内面の声から探ろうとする試みもきっとうまい見方ではない。何故なら、内面の表現において、とても大きな障害を持っているのが、主人公の設定であり、それと同時に、俳優・住田雅清のドキュメント(記録=事実)でもあるからだ。
また前提として無視してはならないのは、彼の声は、機械に翻訳され、おそろしく聞き取りにくい。そして、それゆえに彼は常に「誤解」の危険に晒されている、ということだ。
しかし、この誤解というのは、(確かに彼の発声装置というものは象徴的であるが、)どんな障害者も、健常者から受ける危険に晒されているように思う。もっといえば、「障害者」というレッテルによって、既に誤解されているといっていい。いわゆる「色眼鏡で見る」というやつだ。
僕が思うに、障害者がもし不自由であるとすれば、この社会が貼る「レッテル」のせいだろう。そして、この社会的拘束は、レッテルに留まらず、あらゆる技術や社会機構によって強化される。つまり、彼の声はロボットのようになり、生活は介護士がいなくては成立しないのだ。
さて、この映画の核心に迫ろう。
この映画は、美的な映画である。
(補足するとすれば、少なくとも説明的な映画でも、納得や感動を誘うような映画でもない。)
そして破壊的な映画だ。
住田が最も美しいのは、自分の部屋の中、殺人の予行として、ひとり裸で包丁を振るところだ。
そしてこの不思議な光景(映像)は、今まで誰も見たことがない。それゆえに誰も、この映像の意味を知ることも、意義付けすることもできない。つまり、「障害者」という社会的な「レッテル」がぶっ飛ぶ瞬間だ。その時、人は初めて、住田の肉体の美しさに気付き、魅了される。
つまり、彼は殺人する(=破壊する)ときにのみ、社会に簒奪された自由、つまり自らの身体性を取り戻すのだ。
これが、この映画の核心だ。少なくとも俺はそう感じた。
しかし、皮肉なことに、彼は殺人を繰り返す中で、自らを「殺人者」として仕立ててしまう。そしてその結果、彼の身体性における自由は、新しい「レッテル」によって社会の中へ再び絡みとられていってしまう。つまり「人殺し」として。
最後の長回しの俯瞰映像が象徴的だ。