「狼男アメリカン」(1981、監督:ジョン・ランディス)って、ぜんぜんゾンビ
映画ではないんだけど、なぜか”アンデッド”が出てきて、喧々諤々の会議というか
、相談というか、与太話というか、つまり話し合いをするシーンがあるんだよね。
あらすじは以下を参照。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD1302/story.html
この映画って、邦題は相当なめているけど、原題は"An American Werewolf in
London"、という、スティングの「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」を髣髴
とさせるような、切なげな題名。
でもこの邦題の人をなめた感じ、実はこれこそがこの映画に終始流れる通低音なんだ
よね。(監督本人に言わせれば、"schmuk"(=まぬけ)がテーマらしいんだけど。)
その意味では、この邦題、名訳ですな!
確かにこの作品の主人公デヴィッドは、アメリカ人のダサいパックパッカー。友人と
二人で旅行中、イギリスの片田舎のパブで、よそ者として白眼視され、追い出される
ようにして出て来たところを、異常者(狼男)に襲われる。友人のジャックは殺され
、自分は大怪我して入院。そのころから、デヴィッドは幻覚と悪夢に悩まされ、徐々
に精神が崩壊。最後は自分が異常者(狼男)となって、ロンドンの街中で射殺される
という結末。
ここには、イギリスという異文化に近づくけどなじめない、ユダヤ系アメリカ人の”
エイリアン(=異邦人)”としての「惨めさ」みたいなのがある。
そしてこの主人公の惨めさってのが、最後の死によって悲劇的に昇華されることがな
いんだよ。これこそが監督の姿勢であり、メッセージなんだけどね。つまり、安直な
悲劇(=美談)にはしないぞってね。ここに主人公のダサさが象徴されているといえ
る。
その意味では、コメディ(喜劇)ともいえるんだけど、むしろアイロニー(皮肉)と
いう方が的確かもしれない。というのも、この作品には笑って済ませない何かがある
。(監督自身この作品はコメディーではないって言ってるしね。)
それは、主人公デヴィッドに潜む狂気のことなんだ。
彼の狂気は、ある種の必然を感じさせる。
仮に彼のエイリアンとしての他者性というものが、「狼男」というメタファーでコメ
ディー風に、いわゆる”異化”されたとしても、彼の見た悪夢のリアリズムとその恐
怖は、まったく軽減されることはない。この悪夢のリアリズムこそは、彼に根ざす本
質的な部分に由来するものなんだ。
つまり、彼の悪夢は、エイリアン的状況によって顕在化した、ユダヤ的アイデンティ
ティーにまつわるものだ。そしてこれは、笑えない。(監督自身も、観客も。)
さらにいえば、泣けもしない。この悪夢は、憐れみも、蔑みも受け付けない。ただ恐
怖と自己嫌悪があるのみだ。
しかし、この悪夢のリアリズムをアイロニックな笑いのオブラートに包むのが、ラン
ディス流!
悪夢を見るのが、「自分の目」だとすれば、笑いに必要なのは「他者の目」だと言え
る。そしてこの作品で、主人公を客観視してくれるのが、アンデッドと化した友人の
ジャック。
彼は、自分の友人が狼男になって他人を殺すのを忍び、デヴィッドに狼男になる前に
自殺するようアドバイスに来る。(もうこの設定がおバカ!!なぜか、狼男に殺され
るとアンデッドになり、狼男に噛まれて生き延びたものは、狼男になる。)
結局、友人(アンデッド)の言葉が真に受けられず、自殺しなかったデヴィッドは、
狼男になり、何人もの人を殺してしまう。すると結果的には、アンデッドが増えるわ
けで。今度は殺されたみんなで、デヴィッドについて論じ合うことになる。それもポ
ルノ映画館で。お題は「自殺の方法」。司会はアンデッド代表、ジャック。みなが次
々と死に方を提案。それに対しデヴィッドは本気で悩む。(←もうバカでしょ!)
それでもやっぱり自殺できない主人公は、再び狼男になり、破滅的な終局へと向かっ
ていく。
エンディングのザ・マーセルズの「ブル-・ムーン」は最高だなあ。笑ったよ。
やっぱ、アンデッドになっても友情はかわらない。ゾンビ万歳!!
♪♪ボーボボボーボボーボ~・・・♪♪