2009-07-07

向き合うこと、撮るということ、物語を編むということ このエントリーを含むはてなブックマーク 

レビューに、他のレビューを紹介するのは反則技!と思いながらも、私では書けない素晴らしいレビューが既にあるので、このドキュメンタリーのココロ触れるところは、伊藤雄基さんのレビューに譲りたい。
http://www.webdice.jp/diary/detail/2589/

私もまた観終わった後、しばらく全身は無音のまま、普段ときに立ちくらみを覚えそうな雑踏も、雑然とした街もキラメキのなかで目に映りながらどこまでも歩きたい気分だった。

翻って、本ドキュメンタリーを観ること自体に多少の抵抗がなかったといえば嘘になる。皮革に興味がなく、その良さや生活必需品となっている文化圏での利用は別としながらも、そして身近に革職人として尊敬する人もいるがしかし、それとは別次元の逃れられない感覚的なものとして自分が生活する限りにおいては、皮製品をみるとふとその心の内では人間の皮膚を装身具に加工することを思い浮かべずにいられないような性質で、無論BACKLASHというブランドも知らなかった。それ以前に作品を紹介する安易に聞こえる言葉の数々をはじめ、GLAYが主題歌を描き下ろした云々もただネガティブに響くだけだった。

けれど、日本から世界に名を轟かせる一人の「職人」という点において興味をかきたてられるものはあった。そして実のところ、本作品は、観る者が、それがBACKLASHのファンであれ、全く興味のない者にとっても、片山勇、という一人のヒトにいとも引き込まれる作品であるといって過言ではないと思う。そしてときに片山勇を語りながら己の人生を語る人々がそこにはいる。

そういうわけだから、このドキュメンタリーを形にしたという点においての敬意を本作監督に表しながらも、だがしかし、片山勇という人の覚悟が伝わってくるからこそ、彼が自分の人生を賭してさらす「自分」に、監督は真摯に応えているのだろうかと疑問でならなかった。

このドキュメンタリーは、「片山勇」という一人の人を描きだそうとした点ですべての成功を手中にしたが、逆に言えばそれに尽きる非常に残念な作品だ。

テキストでは決して伝えきることはできない片山の魅力がそこにあるのにも関わらず、映像のチカラを疑いたくなるようなフィルムでもあるのだ。

そう感じるのは、「監督」がそもそも音楽映像をベースとしているからなのか、私が監督の手法に慣れず理解していないだけなのかと、あらためて彼がカメラをまわした作品を棚から引っ張りだしてみた。2004年の映像を持ちだすのは多少申し訳ない気がするけれど、その作品においても何か浮き足立つ「監督」が映り込み、それでいて撮るときには決めきれずオロオロとカメラをまわすだけの姿が垣間見られ、苦しい映像の連続だった。

そんな話を持ち出さずともよいとも思う。けれど書かずにはいられなかった。

片山勇を前にして、そのカメラの先が果たしてこの映画を紹介するにあたって踊る文言、「ビジュアル・アーティスト」「スタイリッシュかつスピード感溢れるアプローチ」が何であったのかを問いたい。それもすべて、片山勇がここまで自らをさらしたといのに、それらが昇華されているとは到底思えなかったからだ。ときに詩的なものはあったが、往々にしてぞんざいに「利用」したという域を出ていないのではないかと。そしてまた湧き上がるものを映し撮ることができない、「待つ」ことを知らぬ姿勢もまた残念であった。

片山勇は、自らをさらすことを許した。それは彼自身の寛容さのほかに監督に依るところもあっただろう。だからこそ、やはりその覚悟に対し、この物語を紡ぐ重責を果たすべきだったのではないかと憤るのだ。

「職人」で応えるべきではなかったのかと。

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くすぶり続けた思いをふるいにかけながらも、やっぱりこんなレビューを書いてしまったけれど、確かにそこに片山勇はいて、移り行くファッションの世界で評価を受けながらも工芸的魅力をもって永く使われる作品を生み出しているBACKLASHというブランドに片山勇に魅せられる人たちがいて、そして今という時代に自分の足で立とうともがいた末に「自分」である人の姿があったことも書き添えておきたい。

映画『イサム・カタヤマ=アルチザナル・ライフ』公式サイト
:7/25(土)より シネマライズ、ライズXにてロードショー
http://www.cinemacafe.net/official/artisanal-life/

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Maru

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“ある晴れた朝 ”