「3331 Art Fair 2017」に、せんだいメディアテークのアーティスティック・ディレクター、甲斐賢治さんからの推薦で参加することになりました。このアートフェアに参加するのは2014の初回以来で、2度目です。
前回は所属ギャラリーの推薦ということもあって、ギャラリーが代理で実作業をいろいろと世話してもらえてとても助かったのですが、今回は、推薦していただいたとはいえ、個人で臨みます。会期中の4日間、基本的に常駐する予定です。場に馴染めないというか、雰囲気が肌に合わなかったら、どっかで本読んだり、酒をひっかけたりしてるかもしれませんが、、。
下記リンクからイベント詳細をご覧ください。まずは玄関として僕のプロフィール・ページのURLを貼ります:
http://artfair.3331.jp/2017/portfolio/a21_yoshihiro-kikuchi/
トップ・ページに移っていただくと昨年の様子をおさめたダイジェスト動画が見れます。この、ほのぼのした感じは、もうちょっとどうにかならなかったのかと、けっこう個人的には厳しいのですが、こうでもしないと、作品を購入するというハードルを跨ごうとする方が増えないんでしょう。でもなあ、基本的にみんなに優しい表現やイベントは性格に合わないんだよなあ。美術ってそもそもそういう大衆の道具なんでしょうかね。
上記に関連して僕が感じる違和感はつまりこうです。
現代美術が過度に社会化され、コミュニティ・アート化することは、一般の大衆に、いかに利益を還元し、その意義を実感させるかということに気を遣いすぎてるということで、僕はそれに対してとても懐疑的です。
芸術の歴史を遡れば、近代以前は、一部の大金持ちに囲い込まれて、彼らの要望に応えるというのが芸術家の主な仕事だった。17〜18世紀にそういった権力者の庇護と束縛から自由になったことで、芸術家は自身の設定する主題を追求できる自由を手に入れた。それにもかかわらず、現在の潮流を、特に日本におけるそれを概観すると、今度は芸術家は大衆の監視にさらされているとは言えないだろうか。一般常識や、社会問題や、その他の問題へのコミットを公益性の名の下に強いられるのは不当だと感じる。
閉じていると思われても仕方ないが、興味のある人だけが、その興味を突き詰めればいいというのが、僕の基本姿勢だ。それは学生のときから変わらない。自身のクリエイティヴィティが、経済的な功利主義に回収されるのが嫌だったから、デザイン科を卒業してもデザイナーにはならず、ただのフリーターになったという過去があるのに、またその亡霊が追いかけてくるなら、ちょっとこれは深刻な問題になりかねない。
ともあれ、最近なかなか東京で展示を行う機会がないので、実物を是非見に来て、そして買っていただきたいです。
展示・販売を予定してるのは、去年の香港での個展で発表した複数のシリーズのうちの一つから、出来はいいにもかかわらず、保管場所の問題などで、発表できなかった作品6点です。
他にも選択肢はありましたが、価格や作品の視覚的なインパクトの面などを考慮に入れて、より買っていただけそうな方を選びました。購入されることが何よりの優先事項なので、「オレはこんなにラディカルなことやってるんだ。評価してくれ!」みたいな力みかたはしません。
購入されるということは、何より僕の利益になるし、しかしそれだけでなく、僕が理解している企画の趣旨、日本における現代美術のマーケットを育てるという目的にも、結果的に貢献できるだろうと思います。作品販売で制作費や活動費を稼がないと、他のバイトやら委託業務やらに時間を取られてしまって有効な時間の使い方ができなくなってしまう。それじゃあ未来を描けない。ほんと頼みますよ、みなさん!
※写真は展示するシリーズの最新作。今回のイベントでは展示しません。悪しからず。