2008-07-01

コッポラの向こう側 このエントリーを含むはてなブックマーク 

久しぶりに映画らしい映画を見た。時間と空間、意識と無意識を往還しながら生きる人間の可能性と限界を、極限までヴィジュアル化し探求した作品、『コッポラの胡蝶の夢』。実験性と娯楽性を兼ねそなえ、分析的・思索的でありかつ情感に強くうったえかけるこの作品は、人間の欲望と夢の極致に観客を引きずり込むブラックホールのような作品だ。

原作は、20世紀最大の宗教学者にして幻想小説家、エリアーデによるものである。彼にとって、物語の舞台であるルーマニア、インド、そして学問の探究にともなう孤独といった設定は身近であったはずだ。しかしこの原作、そして映画作品の力強さは、主人公ドミニクや彼に感情移入する私たちひとりひとりが抱えている個別性をはるかに超えた、時代・問題設定にある。

舞台となった時代は、人類が力を極大化させると同時に自らを滅ぼしかねない科学技術が発達し、超(原)人類なるものの可能性が信じられた時代であった。古代言語を操るドミニクは同時に人工言語を考案し、世界滅亡にそなえて人工言語によるメッセージをジュネーブの金庫に預ける。この古代への憧憬と仮想的近未来をショートさせるような時代感覚は、20世紀前半、未来派をはじめとする前衛芸術家たちが取り組んだ超意味言語の発明やシュプレマティズム、宗教学・人類学における人類の基層文化への注目をほうふつとさせる。時代をさかのぼり、祖語を追い求めていくなかで動物の唸り声があらわれ(!)、祖語の探求は終焉を迎える。「人間であること」を選択する以上は避けられない臨界点に達するのである。ここでドミニクが追い求めた人類の祖形とは人類創造の秘密であり、永遠に解き明かされることのない「わたし」をめぐる謎なのである。

人間存在の謎はまた、人間の生や認識がもつ時間・空間的な限界に挑戦する人間を描くことによっても探求されている。物語自体に流れる時間は円環的で、空間もゆがんでいる。時間と空間の限定づけから解かれたドミニクだったが、最終的に彼が選択したのは、自己存在の多層性、他者性を象徴する鏡を割り、自己の分身と自己自身を抹殺することだった。そして彼は真の幸福を、自己の限界のなかに見出すのだ。これは人間としての限界に挑戦した私たちが見出すことになる、自己の根拠の無底さを示しているのであろうか。

人間の欲望と夢がせつないまでに美しく描かれたこの作品を、コッポラ監督自身は「私の人生に似ている」と述べている。この映画こそ、彼が生涯をささげて見つめつづけてきた鏡であるといえよう。その向こう側の世界が闇でありつづける限り、私たちはそれをまなざさずにはいられない。

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キリノ

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