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日程2010年03月02日 ~ 2010年03月05日
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時間19:30
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会場nosmoking cafe MODeL T http://nosmoking-cafe.net/
東京芸術見本市(TPAM)ショーケース参加作品
d'UOMO ex machina + COLLOL
『«in solitudine secum loqui...» sive de Libro Iob Veteris Testamenti』
http://web.mac.com/d.uomo.ex.machina/domus/porta.html
http://www.COLLOL.jp
東京芸術見本市2010にd’UOMO ex machinaとCOLLOLが共同で出品するにあたり、二つの集団の活動をどうやったら最もわかりやすく紹介できるかと考えてこの公演を構想しました。COLLOLの本公演における演出の分業の
稽古場を公開すること、d’UOMO ex machina公演における劇場空間にいる全ての人が参加する形態、そしてその空間・その時間を丁寧に読解するという両集団で共通に持つ問題意識。それらをビールを片手にくつろいで
楽しんでいただこうと思ったのです。
さて、語る、ということについて。広い空間で演者の身体を最大限に用いた作品を送り出し続ける集団が語りについて考える。それにはやはりそのための空間とそのための身体を必要とする。語る時、私たちは自分の環境と身体をどう使うだろう?
私たちが語り・あなたも語り・外でも人は語ってる。
語ることを最も真剣に考えたと思われる二つの伝統にやっぱり辿りついた。
世界中から集まるお客さまとともにその時間を過ごすために旧約書ヨブ記を戯曲とすることにします。
A small piece on eloquence. Normally, d’UOMO ex machina and COLLOL both present their work in a larger space with full of physical movements, so even if the focus is pointed towards the act of speech it is natural to start investigation from the body and space. How do you use your body and space surrounding you when you are speaking?
Loqui...loquamur, loquamini, loquantur...
Investigation about eloquence bringing us to think about two traditons as shown in the title.
Please tell us your mother tangue when you are reserving the tickets because we prepare the text of the Book of Iob of your language, otherwise please bring your own Bible.
演出・美術: 角本 敦
観客で出演: 田口 アヤコ
いつも演者: 金崎 敬江
演者らしく: 金子 裕紀
まさに演者: 吾妻 由日
あらっ…!: 八ツ田 裕美
あらっ…?: 川合 恵生
ほか、
2日 & 5日に、廣瀬 瞬
3日に、吉井 俊輔 & 土屋 麻悠子
など
日程: 2010年3月
2日(火)19時半
3日(水)21時
5日(金)19時半開演
全3ステージ
会場: nosmoking cafe MODeL T http://nosmoking-cafe.net/
(TPAM主会場である東京芸術劇場から徒歩5分。
TPAM会場内で集合の上、誘導あり。)
料金: 2000円(ビール1杯と戯曲付・各回30名限定)
ご予約・お問合せ: COLLOLmail@gmail.com
03-3716-2410
●ラテン語・英語も交えた日本語上演ですが、上演のお供にご予約のお客様には、ビール一杯とお客様の母語に翻訳された戯曲を配布いたします。ご予約の際にご自分の母語をお教えください。扱うtextの性質上、相当な少数言語であってもご用意できますが、その言語利用者の多数派の宗教上の理由によりご用意の難しい言語も若干ございます。ご用意できなかった場合、代わりにラテン語あるいは日本語のいずれかをお選びいただけますので、ご了承ください。
●また、託児施設はございませんが、未就学児童の観劇を無料で歓迎いたします。泣くなり寝るなりちゃんと観るなり、お好きな場所でお好きなように。なお、ビールと戯曲の配布はありません。
『«in solitudine secum loqui...» sive de Libro Iob Veteris Testamenti』、d'UOMO ex machina公演の題名づけで日本語解説するなら、
『旧約書のヨブ記から着想を得た1時間、あるいは、孤独こそ対話』
です。
«in solitudine secum loqui»はCiceroのDe Officiisの第3巻冒頭段落中にある表現で、「secum」は心の中の公共性とのという意味です。それを心の中にもいるはずの主とのと読み替えていくことで共和政formaをEcclesiaのformaに移植していく作業がAugustinusによって進められていくわけですが、そんなことになるきっともっとずっと昔、主の聲を聞いているだけで満足できずに見ずにはいられないと欲する男がいた。そんな男の孤独についての物語。孤独の中で正しく生きるとは、見えないから気ままに過ごすことのない見えない聲に見られている応対への自覚の倫理。この問題系に繰り返し繰り返し捉えられ続けた思想史は17世紀になって、この男の物語の末尾にでてくるかばさんを主人公に内乱についてを語り、わにさんを主人公に秩序について語る、そんな孤独な英国紳士を生む。かばはヘブライ音に多少忠実になれば「べひーもす」、わには「りばいあさん」、紳士の名はThomas Hobbes。その500年前に、男の物語を念頭に、Augustinusの移植作業の完結という名の逸脱を、Vita activaとVita Contemplativaの優劣についての新しい帰結とともに進めた同洗礼名の聖人の成果は完膚なきまでに叩きのめされる。しかし、二人のThomasはともに「timere」という単語がこの物語のラテン語訳においてどのように出現しているかの詳細な吟味・註釈からはじめていた。それでは、ラテン語への翻訳を行なったHieronymusはいかなる意図でこの言葉「timere」を選んだか、その腑分け作業をすることなしに、ここまで述べてきたいろいろな思想史的な事件の数々を咀嚼していくことなどできようもない。
ということで、意図せずしてこの公演のきっかけをつくった男にこの作品を捧げる、孤独を一人きりでないものしようといままさに必死の対話を心の中で繰り広げ孤独の意味を探求する男に。見られていないなら、ではなく見られていないように思えるからこそ、なのである。
私が作品を捧げたい二人はなんの偶然か誕生日が同じ月日。21年の差...。
角本 敦