『夜あるいはなにものかへの註』より、主役の老婆を演じる大道夕子(写真提供:高野達也)
アップリンク渋谷で異例のアンコール上映が続く『沖縄のハルモニ』の監督、山谷哲夫がセレクトし、メディアでは紹介されることの少ない貴重な作品を上映する企画「11AM劇場」の第3回が12月21日(土)より12月27日(金)までアップリンク渋谷で実施される。
webDICEでは、山谷氏がこの企画へ込めた思いとともに、今回の目玉とも言える1977年のドキュメンタリー映画『夜、あるいはなにものへかの注』について、台本・演出を担当した高野達也氏の執筆による、制作当時を振り返る文章を掲載する。
『夜、あるいはなにものへかの注』は、当時病院看護助手をしていた高野氏の構成した台本をもとに、12人の入院患者たちが自主的に演じた1973年に千葉県文化会館での舞台を千秋健監督が記録。関係者宅で原板が発見され、42年ぶりの上映が実現した。
「ニッチならニッチな生き方がある。誰もがやらないような興行価値が低いドキュメンタリーを、『惹句』とビラデザインでアップリンクへ呼び込もう。特に社会を挑発するような映画を探し当てて、それをぶつけよう、と決心した」(山谷哲夫)
「主人公の老婆を演じた大道夕子さんはは舞台を振り返って、『わたしは正常を演じたのだ』とシニカルな物言いとしたことがあったが、人が芝居をするという行為には日常の自分からなにかを演じてみたいという欲求が潜んでいるということを彼女は認識させてくれたのだった」(高野達也)
「11AM劇場」誕生!
文:山谷哲夫
元々は四季ごとに、土曜日にアップリンク渋谷で上映していた『沖縄のハルモニ』が原点である。
ずっと36年も渋谷に住んでいたし、劇場のすぐそばの渋谷区役所は16年間もオンブズマンとして、情報公開に通っていたので、友人、知人は多い。
最初からアップリンク渋谷で上映するにあたって、客は渋谷区役所職員か、日本映画学校の教え子たちで、顔見知りが多かった。
だから、毎回盛況で、帰ってもらう友人たちも多かった。そのうち、余りの盛況で『沖縄のハルモニ』+もう1本ということになり、教え子の『あんにょんキムチ』、『妻はフイリピーナ』等の卒業制作をかけるようになった。これも、教え子たちの人望、奮闘で入りきらないほどの客が押し寄せた。
今回の「11AM劇場」のヒントを与えたのは、『セオウル号事件』の共同監督をした安さんである。前回、日本でやって上映失敗し、それでも「敗者復活戦」に闘志を燃やす安さんに心打たれ、アップリンクで企画を担当している石井さんに相談したところ、『沖縄のハルモニ』と併映だったらやりましょう、という返事が出た。
1月に足のくるぶし手術が失敗し、1か月も入院、自宅からの通院を重ねている間に自作のPRは後回しになり、3月上映は8席も空けてしまった。しかし、ソウルに住んでいる安さんはSNS、電話等を駆使し、なんと3席しか空きを出さなかった。そこで、ぼくは考えた。本気で監督自らが売り込めば、定員58人のアップリンク渋谷は埋まるのだ。
監督自身が売り込み、上映当日集まった客とお話すれば、普通の社会人生活をしている監督だったら、50人は来る。
ニッチならニッチな生き方がある。誰もがやらないような興行価値が低いドキュメンタリーを、「惹句」とビラデザインでアップリンクへ呼び込もう。
特に社会を挑発するような映画を探し当てて、それをぶつけよう、と決心した。
典型的な例が、第1回「11AM劇場」で最初にぶつけた『天皇の名のもとに―南京大虐殺の真実』+『沖縄のハルモニ』である。2本を一気に見せてしまう方法だ。南京での強姦、殺戮はぼくでさえ、目をそらすほどである。それを1937年当時、中立国であった米国の牧師が家庭用撮影機で日本軍の目を盗んで「盗撮」していたのだ。よくぞこのフイルムの存在を探し当てた!上映は大反響で、問い合わせの電話が鳴りっぱなしで、多くの客に帰ってもらった。
第2回「11AM劇場」も4日間も特集した。第一回はただの1回だったが、あまりの反響のすさまじさに4倍に延長したのだ。
第3回「11AM劇場」の目玉は、精神病院の生の患者が舞台の上で「狂気」を演じるのである。44年も前に1度見たきりでも、主演女優「大道夕子」にぼくは憑りつかれている。
ヤバい、ヤバい。でも「怖いもの見たさに、また見たい」。この舞台劇1作きりで「大道夕子」はまたまた奈落の闇に姿をくらまし、消息不明である。
信じられないほど、「大道夕子」を見たい客が予約している。「伝説の舞台」として、「地下水」のごとく漏れ伝わっているのだろう。
もう来年3月の、第4回「11AM劇場」の仕込みに入っている。「大道夕子」以上の怪物を探さなければならない。
『夜あるいはなにものかへの註』より(写真提供:高野達也)
『夜あるいはなにものかへの註』を巡るいくつかの記憶
文:高野達也(『夜あるいはなにものかへの註』台本・演出)
もう40数年も昔のことだからいろんなことを忘れかかっている。そんな年齢に私もなってきた。でもあの頃のことは不思議になんとか覚えている。
テレビのブラウン管からはキャンディーズがいつも歌っていた。いやピンクレディーだっただろうか……。
私は終点のバス停で降り、教えられた精神病院に向かった。道沿いには桜が風に舞い春の匂いを漂わせていた。私はなんとも言えない不安でいっぱいだった。
私を待ち受けていた丸い眼鏡をかけた年配の総婦長が婦長室で病院の概要を笑顔で話してくれた。窓から小学校の校庭ほどの広さの庭が見えた。病院の説明に私は上の空だった。
病棟の中は世間の時間が忘れられた古いアルバムのような匂いを漂わせ、その澱のような時間の中を患者たちがひっそりと呼吸をしていた。患者はたいがい10人くらいの畳の部屋か六人ほどのベットの部屋にいた。私は見てはならないものを見ているようないたたまれない気持ちで総婦長のあとに従っていた。普通の病院では感じられない患者の視線をどう受け止めていいのか戸惑っていた。
施錠された男子閉鎖病棟に入ることになった。それまで開放病棟を廻っていた時も胸の鼓動は高まっていたが、閉鎖病棟のナースステーションに入った時はここで仕事をしようと思ったことを後悔し始めていたくらいだった。
総婦長は勤務している看護婦や看護士たちに私を紹介すると、男子閉鎖病棟の鍵を開けてホールの中に入って行った。私は緊張して彼女の後に続いた。深い海底に飛び込むような気持だった。
突然眼鏡をかけた太った男が髪を振り立てて私に近づいてくると、いきなり投薬用のカップの水を私の顔にひっかけ、ニヤッとしたかと思うと、ホールの椅子を持ち上げて天井の蛍光灯をバリバリと壊し始めたのだ。他の患者たちは別に驚く様子も見せずに自分の時間の中に佇んでいるようだった。男は看護士たちに抑えられへらへら笑って大人しくなった。僕は何食わぬ顔で立っていたが、実は恐怖で足が竦んでいた。
「あなたに対する挨拶ですよ。きっと気に入られたのね」総婦長が笑顔でそう言った時、返す言葉もなく生唾を飲み込んだだけだった。
『夜あるいはなにものかへの註』より(写真提供:高野達也)
この病院の仕事をしてみないかと誘ってくれたのは千葉大の医学部にいたSという男だった。彼は当時の私の荒んだ生活ぶりを見てのことだったに違いない。
看護人の仕事で要は夜勤だという。看護士と違って無資格でいいというのだ。もっともフロイトやユングあたりは人並みに齧っていてそれなりに精神医学に興味はあり心を動かされたが「夜勤は寝ていれば金になる」という甘い言葉が決め手になったのがことの始まりだった。(従来の日本の精神病院の看護人は用心棒的な存在だった)
その頃全共闘運動はとうに終息していたが、その名残でもあるかのように、紹介先の病院は計見副院長を中心に「精神病院」の開放化運動の渦中にあったし、その活動の尖端をいっていたらしい。要は鉄格子のない開放された病院にしたいという考えを推し進めていたのだ。従来の日本の精神病院は収容所のような劣悪な環境と、その管理体制こそが精神病の症状を生み出しているという認識から、その弊害を取り除こうという新しい運動なのだ。その試みによって治療現場はきめ細かい対応に追われ忙しく人手の足りない状態になっていたのだ。その種の事情を私はまったく知らずにのこのことやってきたのだ。
私はそれまでに十本の指では収まらないほどのアルバイトをしてきた。土木作業員、焼き鳥屋の店員、ピンク映画の助監督、道路測量のアシスタント、露天のたこ焼き屋などいろいろだ。私は当時アングラ演劇とも言われていた小劇場で制作や演出助手をしていた。
私は劇団の主宰者である太田省吾という演出家の仕事を尊敬し、自分も彼に並ぶような作家兼演出家になりたいと思っていた。(実は役者にもなりたかったのだ)ところが私はものを考えたり、視たりすることにいつも主宰者の眼を借りて見るようになって自分がなにを作りたいのかわからなくなっていた。その苦しさがあった。いまは亡き大杉漣からは「タカノちゃんは男に抱かれたことのない処女だよ」と笑われたこともあった。私は夜ごと酒が必要だった。
『夜あるいはなにものかへの註』より(写真提供:高野達也)
勤務は閉鎖病棟からだった。深夜に保護室に入っていくときはベトコンの襲撃にビクつく米軍の新兵のように緊張していた。
昼間はうなだれているような姿しか見せない青年が深夜になるとその眼が昼間とは異なった光を帯び、まるで獣が獲物を狙うような目つきでシャドーボクシングを始めるのだ。彼は四回戦ボーイだったらしい。かつては頂点を夢見ていた時期があったのだろう。孤独なシャドーボクシングは復活への執念のように見えた。闇が人間の精神活動を激しくうごめかすのか、昼間の光では見えない影の世界が夜の病院には満ちていた。
精神病院に少しづつ慣れてきた頃だった。演劇同好会の面倒を見てくれと病院長から指示された。この会は大学時代演劇部にいた浅野医師が面倒をみていたもので病院のレクリエーション活動の一環として演芸会やクリスマス会などで寸劇などをやっていたという。その後釜をお前がやれということだった。
六、七人の患者が集まっていた。2、3カ月、時間を調整しながら稽古を体育館でした。舞台の内容はあまり覚えていないのだが、別役実の「象」や河野多恵子の「嵐が丘」などいくつかの戯曲や小説の一部を寄せ集めて作った小一時間の小品だった。発表は体育館で照明や装置を作り、本格的な舞台にした。(このときから転形劇場の仕事で知り合った美術家の星埜恵子さんにいろいろ舞台つくりに協力してもらった。)観客の患者たちはいままで見たこともない変な芝居だと言いながら喜んでくれた。看護者や医師たちにも評判は良かった。そのことをみんなが感じ取り、打ち上げの席に来年は街の劇場でやりたいものだと熱に浮かされたような言葉がはじけ飛んだ。まあ興奮がなせるいっときの発熱だろうと思っていた。
ところがその熱意に私も影響され、病院の計見副院長も街の劇場で公演をうつなど面白いことじゃないかと逆にはっぱをかけられた。
私が体育館の外で演劇の公演を打っても面白いかもと思ったのは稽古の途中、大道夕子さんという患者の演技に手ごたえを感じたからだった。彼女は私のダメ出しをとてもよく理解してくれて、説明的な演技ではなく自己の内部に下りていくような表出を探してくれたのだった。
さらに劇場でやろうと思ったのは、病院の廊下の掃除をしていた時、ホールの壁にボールペンで書かれた小さな落書きを見つけたことからだった。そこには「夜の浜辺で貝がひっそりと唄うように、わたしもそんなふうに唄ってみたい」と記されていた。誰かがこのような表現をしたことに私は心を動かされたのだ。夜、貝のようにひっそりと唄いたいとはどのような気持ちなのだろうか。きっと白昼に大きな声で言えないような秘めた想いにちがいない。
この一行の落書きに患者の声にならない表現ということを思った。何気なく過ごしている患者の生活を私は外側からしか見ていなかったが、その心の奥底にはいろんな想いがあることを今さらながらに知って心を打たれたのだった。
寸劇のような笑える出し物もいいけれど自分たちの想いを託せるような芝居をやったらどうだろうという気持ちをもったのだ。
『夜あるいはなにものかへの註』より(写真提供:高野達也)
『夜あるいはなにものかへの註』の主人公は保護室の中にいる老婆にした。その役を演じる大道さんは40歳そこそこの女性で、この病院に来る前は従来の精神病院で相当辛い目にあってきた人だった。それだけに彼女は反抗的で扱いにくい患者として見られていたと聞く。それはこの開放化を目指す病院に来て、かつ計見医師が担当になり医師の言葉が彼女のこころを動かし始めてきたこともあって彼女の反抗的な態度はかつての反動だったのだろう。芝居の稽古をはじめる頃には落ち着きも出てきて、言葉に対して新鮮な出会いを求めるようなところがあった。
彼女は舞台を振り返って、「わたしは正常を演じたのだ」とシニカルな物言いとしたことがあったが、人が芝居をするという行為には日常の自分からなにかを演じてみたいという欲求が潜んでいるということを彼女は認識させてくれたのだった。たとえば彼女の演じた「湯島の白梅」のお蔦の役は科白と伴奏が彼女をしてそうさせる日本の文化の伝統を自分の身体に見出したのだと言ってもいいのではないか。私にはそう思えたのだった。
千葉病院での街での演劇公演はこの作品に続き『もうひとりのアリス』『青い舟の歌』と年に一度、千葉の市民ホールで行われたのだが、舞台作品は病院の医師や看護師、ケースワーカーそして私が所属していた劇団の連中などいろんな人の力を借りて実現したのだといまさらながら思うのだ。
香港フラワーではない本物の花を咲かそうと誰かがつぶやいた。
「本来病院は患者にこんなに面倒をみることはありません。これは病院にとっても冒険だったんです。お祭りだったんです。だから一瞬でも花が咲いたんです」とある医師が病院の演劇を語っていた。たしかにそれは冒険だったにちがいない。
精神病院は精神科病院に、分裂病は統合失調症に、看護婦は看護師に名称が変わった。その内実も変わったのだろうか。私が関わっていた病院は開放をめざす先進的な内容だったが、日本の精神病院の現状はどうなのだろうか。
そもそも世界で一番精神科病院が多いのが日本だという。34万人が入院しているという。そのうち10年以上の患者が7万人いるらしい。
舞台の主役を演じた大道さんは現在、とおに退院をされて、アパート暮らしをして仕事をされていることを数年前に報告を受けた。そうそう彼女が出版した詩集「水の音」は彼女のみずみずしい感性を表現したものだった。彼女は普通の生活をいま普通に生きていると聞く。
第3回「11AM劇場 名画発見!」
12月21日(土)~12月27日(金)
アップリンク渋谷
12月21日(土)、12月24日(火)、12月26日(木)『天皇の名のもとに』+『沖縄のハルモニ』
12月22日(日)、12月27日(金)幻の舞台劇『夜、あるいはなにものへかの注』
12月23日(月)『光州蜂起』+『アイ(こども)たちの学校』
12月25日(水)『花はんめ』+新作『花はんめ、その後~』
各日11:00より上映