映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
1974年にアメリカで生放送中に自殺した実在のニュースキャスター、クリスティーン・チャバックと彼女を演じようとする女優ケイト・リン・シール、ふたりの女性を描く映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』が7月15日(土)よりアップリンク渋谷にて公開。webDICEでは、ロバート・グリーン監督のインタビューを掲載する。
駆け出しの女優、ケイト・リン・シールは、クリスティーン・チャバックのドキュメンタリーを撮るという企画として、再現ドラマのなかでクリスティーンを演じることになる。ケイトは役作りのためにかつてクリスティーンが住んでいた街を訪ね、なぜ自殺するに至ったのか調査。クリスティーンが置かれた境遇を理解しようと試み、髪型や肌の色などもクリスティーンに似せようと役にのめり込んでいく姿をカメラは捉えていく。しかし、変貌していくケイトの姿も「演出」なのかもしれない、ということも含め、現実とフィクションの境があいまいなまま物語は進んでいく。何がドキュメンタリーで何がリアルなのか?そんな疑問を観客に投げかける作品だ。
「フィクションとドキュメンタリーがどんな関係であれ、自分が見ているものが一体なんなのかということ、そういう疑問こそが観客に深く語りかけると思うんです。フィクションとドキュメンタリーは、混ざりあっていたとしても分けられるものではないでしょうし、そのふたつの間のなにかを見つめることができるはずです。そしてそういう混ざり合った中から、真実のようなものや啓示的な体験が見出されるのです」(ロバート・グリーン監督)
虚無感をシーンに落とし込みたかった
──「映画内映画」というテーマは、ある種とても滑稽なものになることがあると思いますが、それをテーマと決めた理由について詳しく聞かせていただけますか?
私にとって、「映画内映画」をテーマにすることは、作品の失敗を意味する、ねじれたアイデアなんです。典型的だし、ただ典型的というだけじゃなくて、もっと隠喩的に典型的な説話法です。「物語が判然としないこと」、これがひとつの狙いでもありました。でも、そんなことに意味はない。映画内のすべてのシーンは事実に基づいた情報、つまり彼女の人生や彼女の台詞、彼女がしたとされる会話の上に成り立っているからです。我々はそれらを、ケイト・リン・シールを主演に、メロドラマティックな、ソープオペラ的な、70年代の古くさくて「こんなのあり?」という感じに仕上げたのです。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』ロバート・グリーン監督
誰かが自殺をした時、理由を知りたいでしょう?人間ならだれだってそう思います。でも絶対に分からない。自殺の理由なんて他人には説明出来ないんです。薬の乱用とか、鬱だったとか、表面的な理由はわかると思います。でもそうではない、心の奥底のことは誰にも分からない。だから、我々は、そういった虚無感をシーンに落とし込みたかったんです。
──クリスティーン・チャバックの自殺したシーンを記録したテープがテレビ局に保管されているのか、否かを探る点が興味深かったです。このテープの存在も企画を始めるきっかけになっていますか?
個人的には絶対にそのテープは見たくないから、魅力的でもなんでもなかった。彼女は自分が自殺する映像をより多くの人に見てもらいたかったのに、その機会が失われているのは、皮肉なことです。
自殺の映像を見たいか見たくないかを観客に考えさせる、という点ではとてもいい装置になっていたと思います。映画が始まってすぐ、早い段階で観客はすぐに、「その映像を見てみたい」あるいは「見たくない」というふうに考えだすと思います。そしてそれが、観客を物語へと引き込む要素になる。見たいか、見たくないかの選択があることが、本作を観客にとってより身近なものにしていると思います。なぜなら今や、人々は常にそういったことに直面しなければならないからです。「元カノの写真を見たいか」とか「シカゴで黒人の子供が射殺されるのを見たいか」とかいうことと折り合いをつけていかないといけないでしょう。
──でも、ほとんどの場合そういったイメージは既に目の前にあって、選択の余地などない。
そう。1974年はこんなことが起こり得た最後のタイミングだったでしょう。もし事件が1976年だったら、誰か録画していたでしょうね。
──1976年だったら、映像は公に見ることが出来たと思いますか?
ええ、1976年に同じことをしていたら、少なくとも80年代前半まではその映像はなんの抑止もなく出回っていたと思います。だからこれはある種、文化的な瞬間でもあるのです。つまり、テレビでの自殺が起こり得て、しかも広まらなかった、ということが可能だった最後の瞬間なのです。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』クリスティーンを演じるケイト・リン・シール
実際の自分とそうでありたいと思う自分との間の溝を
理解しようとする映画
──作られるべきではない作品を作っている、という感覚はありましたか?
どんなテーマの映画やドキュメンタリーを作るべきか、あるいは作るべきではないのか、という問いに関しては……自身の撮っている作品を撮るべきかどうかを自問する人は多くはないでしょう。私たちが自問していたのは、実際に起こった事を再現するべきなのかということでした。そしてそれは、自殺というものが私たちの心の内にどんな感情を引き起こすかということと関連しています。私たちは必死で自殺という行為を説明付けようとします。なぜなら、それは生物としての人間の本能に逆らうことだからです。だから、何かを解き明かしたい、理解したいがために、このような事件を物語化する必要があるのです。そのためにストーリーを伝える必要性、映画でありドキュメンタリーであり、役者が話を進めていく作品を作る必要性がありました。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
ではその葛藤をどう具現化してゆくか?ということですが……この映画の構造、コンセプトは、この葛藤の中でもがくケイトを映すこと、もっと言うなら、もがく姿を演じているケイトを映すこと、といってもいいかもしれません。だから皆「ケイトは演技だったの?それとも演技じゃなかったの?」と言うのです。もちろん彼女は演じていますよ。彼女は自分の表情や身体、発言や行動をきちんと把握できる表現者ですから。でも、それと同時にやはり、これは彼女がその場で起きたことを受けて反応した、というものでもあるのです。まるでなんのフリもしていないような。でも、演技だって決して何かのフリをするものではないでしょう。
だから私にとって、「彼女は演技をしているのか?」なんて質問は答えがないものです。決めつけてしまうより、開かれた問いのままにしておいてほうがいい。そうすることで観客を“見られる”ということについて考えさせるんです。
それからケイトについては、彼女には何度も言ったことですが、私はケイトが役者になる前から知っていますし、彼女も私が映画作家になる以前から私のことを知っています。だから私はケイトが「役者になりたい」と言ったとき、「想像できない!だって君はこんなにシャイで、大人しくて、静かで感じがいいのに!」と思いました。彼女がカメラの前で服を脱いだり、はしゃいだ人たちの集まるシーンを演じたりしたがっているとは思えなかったから。
だから、この映画は人々が実際の自分と、自分がそうでありたいと思う自分との間の溝を理解しようとする映画でもあるんです。ケイトについてもそうだし、またクリスティーンがどんな人間かということと、彼女のしたことについて語ることも、そういうことなんです。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
フィクションとドキュメンタリー、そのふたつの間のなにか
──役者を実在の人物に可能な限り近づけるという、ある意味バカげた手法を用いるような伝記映画に対する、批評的な意図もあるのでしょうか?
冒頭のケイトについてのモンタージュ・シーンを作るために彼女のことを調べていて、面白いものをみつけました。テレビドラマでハリエット・ビーチャー・ストウ(アメリカの女性作家。『アンクル・トムの小屋』の著者)を演じるときのインタビューで、今回の撮影とすごく似た発言をしていたんです。それは、「実在したこの人物に敬意を払いたい」という意味なんですが、ケイトはこの映画の中でまさに同じようなことを言っていました。
この映画を撮り始める時、実在の人物を演じる、という面について深く考えていませんでした。私の考えていたことは、むしろ、実在の人物にどう演技を重ねていくか、ということでした。でも撮影が始まってすぐ、ケイトにとって表現する上でそのことがすごく重荷となっていると気づいて……それは私にとってはとても驚きでした。
私のアイデアはまだ不明瞭であいまいなものでしたが、最初の彼女へのインタビューを撮ってすぐに、具現化するのが難しい人物を具現化しなければいけない、という状況に彼女を追いこんでいるのだと気づいたんです。
ケイトはよく分かっていると思うけれど、人並みの人生を送り、そして劇的な死を遂げた人物を具現化するなんて、気持ちのいいことではありません。まったく、楽しいことなんてないんです。だから撮影中何度も、私は自分自身に少し苛立ちを感じることがありました。彼女をこんな状況に追い込んでしまった、と。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
──『ケイト・プレイズ・クリスティーン』は、あなたの劇映画での編集者としての手腕とドキュメンタリー監督としての手腕、それぞれの良さが組み合わされた、感情的な作品だと思います。
そのことはすごく考えました。今ではフィクションとドキュメンタリーが組み合わされた映画はたくさんあるでしょう。というか、本当はそういうフィクションとドキュメンタリーの掛け合わさったものはずっと昔からあるんです。チャップリンとか、映画が始まった頃からね。私が思うに、フィクションとドキュメンタリーがどんな関係であれ、自分が見ているものが一体なんなのかということ、そういう疑問こそが観客に深く語りかけると思うんです。フィクションとドキュメンタリーは、混ざりあっていたとしても分けられるものではないでしょうし、そのふたつの間のなにかを見つめることができるはずです。そしてそういう混ざり合った中から、真実のようなものや啓示的な体験が見出されるのです。
私はドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせることで何か巧妙な、技巧的なことをしたいと思っているわけではありません。あなたがこの映画が感情的だと言ってくれて、とても嬉しかった。だって予想もしていなかったわけでしょう?この映画が感情的なものになりえたのは、すべてケイトが具現化してくれたからです。
(オフィシャル・インタビューより)
ロバート・グリーン(Robert Greene) プロフィール
1976年生まれ。監督作品として、ゴッサム・インディペンデント映画賞を受賞した『Actress』(2014年)、『Fake It So Real』(2012年)、 『Kati with an I』 (2010年)。映画製作のかたわら、「Sight & Sound」誌での執筆活動や、ミズーリ大学のジャーナリズム学科での助教授も務めている。
映画『ケイト・プレイズ・クリスティーン』
7月15日(土)よりアップリンク渋谷にて上映
監督:ロバート・グリーン
出演:ケイト・リン・シール
撮影:ショーン・プライス・ウイリアムズ
音楽:キーガン・デウィット
原題:Kate Plays Christine
配給・宣伝:chunfu film
宣伝協力:アップリンク
アメリカ/2016年/112分/英語/カラー/1.78:1