映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』より
「消えた画」とは、ポル・ポト率いるカンボジア共産党政権(クメール・ルージュ)によって破棄された、カンボジア文化華やかし時代の写真や映像のことである。さらには、ポル・ポト派による大量殺戮がなければ、命を落とさずにすんだであろう150万人もの市民が歩んでいたはずの人生のことでもある。
1964年に首都プノンペンで生まれたリティ・パニュ監督は、家族と親族のほとんどをクメール・ルージュの強制労働と飢餓で失い、13歳でたったひとりタイの難民キャンプへ避難、その後フランスに移住した。以降、祖国の陰惨な歴史を伝えるために、フィクションとドキュメンタリーの垣根を超える映像作品を数多く製作してきたが、自身の体験を直接語ったのは本作が初である。自らの記憶を再生しながら、犠牲者が葬られた大地の粘土で人形を作り「消えた画」を表現するのだ。
映画の中で、監督が「私は今でも、実家の建物を隅々まで憶えている」と、少年時代に大家族で幸せに暮らしていた家を、驚くほど精巧に描くシーンがある。そのように並はずれた記憶力と、立体感表現のセンスを備えた人物が作り出したのは、ただの土人形ではない。人形たちは想像を超える表情の豊かさと緻密さで、観る者に悲劇を物語っていく。以下に監督のインタビューをお届けする。
リティ・パニュ監督。
土人形たちは、動かないけれど、感情が詰まっています
──この映画には、「再現」という言葉がふさわしいのでしょうか?
いいえ、私の映画は「再現」というより、もっと生々しいものです。一人の人間は、どのようにして出来上がっていくのか、その人を構成しているものは何なのか、ということを語っています。私は農民であり、大地に根を張って生きてきました。とても素朴な人間です。だから、大げさな観念を展開しようとは思いません。実際、物事を深く突き詰めていこうとすると、無惨な失敗に陥るもので、遠くからただ覗き見しているだけ、あるいは感傷的になり過ぎる、そのどちらかになってしまいます。
──失われた映像とは、どのようなものでしょうか?
この映画の始めから終わりまで、その疑問がずっと続いていきます。何を探し求めているのか? クメール・ルージュの殺害シーンを写した映像なのか? できることなら老人になるまで生きてほしかった両親なのか? もし従兄弟が生きていたらもし、彼は結婚していただろうか? これらすべてが「失われた映像」です。本作のゴールは、失われた映像を作り出すプロセス以上に重要なものではありません。
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』より。
──土の人形は、どのようなことを物語るのでしょうか?
この作品には2種類の映像があります。一つは「ばらばらにして分析」できるようなプロパガンダ映像と、もう一つは私が作り考え出したものです。これらの二つは矛盾した映像です。人形は動きませんし、3Dアニメ化もしていませんが、雰囲気を作り上げました。一方、プロパガンダ映像には、音も雰囲気もなく、人々は何も喋っていません。人形は、それぞれの場所でおしゃべりしているように見えます。ナレーションのおかげで、プロパガンダ映像に出てくる人間たちより、ずっと生き生きと表現豊かに見えます。アーカイブ映像に映っている人間たちは、ロボットのようであり、塵や砂粒で作られているのと同じでした。彼らは人間としてのアイデンティティが消され、ただ集団としての塊と見なされていたのです。
──あなたにとって人形を彫り上げていく行為は、どんな意味がありましたか?
観客に人形を作る工程を見てほしいという思いがありました。そして彼らがどこに置かれ、どこに移動させられるのか、その過程も見てほしかった。技術的には、移動シーンを見せずに済ませることもできましたが、私にとっては動きが重要だったのです。たとえば、ある人にとって仏頭は、ただの彫刻かもしれませんが、私にとっては魂です。パリにあるギメ美術館に展示されている彫刻を見ると、それらはどれも魂を持っています。アートと魂は切り離せません。偽りのない、人間的な価値を持ち合わせている芸術は、とてもパワフルです。利己的でなく、広く開かれ、創造性に豊んだ芸術は、魂を持つのです。
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』より。
──この作品は、映画についての映画であると言えますか?
本作は、劣化したフィルムのリールを映すショットで始まりますが、これは過去の時を表現し、映像が破壊され、すでに存在しないことを意味します。そしてこのショットの4カット後には人形が現れ、そこで意志が見えてきます。詩人=poetとは、ギリシャ語の語源でいうところの「作る人」です。人間は、何かを創造できるから人間なのです。神が世界を創造したのとは異なる意味で、想像力と表現力をもって創造します。だからこそ私たちは人間であると言え、映画は創造性において強い力があります。3Dはたしかに素晴らしい技術ですが、エンタテインメントであり、魂がありません。私の小さな人形たちは3Dではないし、土で出来ているけれど、魂がある。動かないけれど、彼らには感情が詰まっているのです。
──本作はどのように作られていったのですか?
映画を作りはじめる時には、結果がどうなるかはまったく見えません。自分が作ろうとしているものに結果的になり得るのかもわかりません。造形的、テーマ的、技術的なものがまず頭に浮かんで、それが形を成していきます。一年間かけて、私は村から村へと渡り歩き、色々な人に出会い、彼らの話を録音し、映像に記録し、最後に「よし、これでいい作品が撮れそうだ。でも、また同じ傾向の作品になりそうだから、作ることはできないかもしれない」と思いました。そこで、違った作風にしようと考えたのです。いつも同じ場所ばかり掘り続けている監督だと思われるのが嫌だったのです。ずっとクメール・ルージュをテーマにしているとはいえ、毎回、異なるアプローチで描いています。ウディ・アレンはニューヨークのユダヤ人監督ですが、彼が描くのは、たいていニューヨークのユダヤ人です。私は彼の映画が大好きですし、彼に向かって「同じストーリーはもうやめて」とは言いたくありません。ウディ・アレンの映画はいつでも新しい感覚で、新しい演出で、異なるシチュエーションで見せてくれます。『カイロの紫のバラ』でスクリーンから飛び出してくる主人公を描いた時のように、多彩な創意によって、彼が作品を撮り続けられるジャンルを見つけただけではないことがわかります。最終的に本作では、芸術が魂を作り出すというアイデアに立ち返ることにしました。
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』より。ポル・ポト(左端)率いるカンボジア共産党(クメール・ルージュ)の制作したプロパガンダ映像。
──この映画には、謙虚なところがあると言えるのではないでしょうか?
もし私の家族がこの映画を見たら、私が馬鹿げたことをする専門家になったと思うでしょう。この映画は、過去の作品より私的ですし、同時にそれが罠になりえます。さらに人形を使うという形式も危険だと言えます。人形だけ見ると、虐殺とクメール・ルージュについてのアニメ映画を作ったのではないかと、いぶかしむ人もいるかもしれないからです。私が大上段に構えてはならないと思ったのも、と言うのはこれはとても慎ましい作品です。自分にとっては、警告にもなりました。もし芸術が常に何か新しいものをもたらし、新しい見方を提示し、理解することを助長するなら、まず継続していくことが重要だと思うのです。映画をただ作るという目的のために作るなら、意味がありません。すべての新たな作品には、何かが新しく付け加えられるべきであり、それがうまくいったとしたら、全体主義的な支配や破壊よりも、映画には強い力があることを証明してくれると思います。虐殺を描く映画監督になる前に、まずは一人の映画監督になるべきです。虐殺を描くことしかできない映画監督になるのなら、すぐにでも辞めてバーテンダーかレストラン経営者になるべきです。
──今後の活動予定を教えてください。
パリのアトリエ・ヴァラン[映像作家協会]と、プノンペンのボファナ視聴覚資産センターを通して、自分の探究を続けます。これからもカンボジアの虐殺について描く仕事に集中していくつもりです。
(2013年カンヌ国際映画祭にてメラニー・カルパンティエによるインタビュー)
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』より。
リティ・パニュ プロフィール
1964年、プノンペン生まれ。同世代の多くと同じように、両親を含め親族すべてをクメール・ルージュによる強制労働キャンプで飢餓と過労によって亡くした。1979年、タイとの国境を抜けて、クメール・ルージュから逃亡。その後、フランスに移住し、パリの高等映画学院(IDHEC)を卒業。ドキュメンタリー映画監督としてスタートし、『サイト2:国境周辺にて』(1989)、『スレイマン・シセ』(1990)、『カンボジア、戦争と平和のはざまで』(1992)等で数々の賞を受賞。初の劇映画『ネアック・スラエ、稲作の人びと』(1994)は、カンボジア映画として初めてカンヌ国際映画祭のコンペティションに出品され、2作目の劇映画『戦争の後の美しい夕べ』(1998)はカンヌ国際映画祭〈ある視点〉部門に出品された。1990年にカンボジアに帰国し、現在はカンボジアとフランスとを行き来している。
映画『消えた画 クメール・ルージュの真実』
2014年7月5日(土)よりユーロスペースにてロードショー
1975~1979年にカンボジアで起きた大虐殺の記憶……。色鮮やかなカンボジア文化が、クメール・ルージュによる“黒”と紅い旗とスカーフだけの世界に突然、一変する。人形と交互に現れるプロパガンダ映像に登場するポル・ポトはいつも笑顔だ。ベトナム戦争を背景とした冷戦下の大国の対立に端を発した、クメール・ルージュによる悲劇。なぜ、陰惨な歴史は繰り返されるのだろうか。リティ・パニュとフランス人作家、クリストフ・バタイユによって書かれたことばが、犯罪と歴史の記憶を暴いていく。2013年カンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉グランプリ受賞。また、本年度アカデミー賞外国映画賞にカンボジア映画として初めてノミネートされた。
監督:リティ・パニュ
製作:カトリーヌ・デュサール
テキスト:クリストフ・バタイユ
ナレーション:ランダル・ドゥー
音楽:マルク・マーデル
人形制作:サリス・マン
撮影:プリュム・メザ
編集:リティ・パニュ、マリ=クリスティーヌ・ルージュリー
共同製作:CDP(カトリーヌ・デュサール・プロダクション)、アルテ・フランス、ボファナ・プロダクション 原題:L’Image manquante (英題:The Missing Picture)
2013年/カンボジア・フランス/フランス語/HD/95分
協力:東京フィルメックス、現代企画室、シネマトリックス、ユーロスペース
配給:太秦
公式サイト:http://www.u-picc.com/kietae/
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