映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より
ナチス占領下のドイツを自らの語学の才能を発揮し生き延び、戦後、ロシア文学の翻訳に尽力した女性翻訳家の人生を、彼女の穏やかな日常生活と美しい言葉から探る映画『ドストエフスキーと愛に生きる』が、2月22日(土)からロードショー公開されている。
公開にあたり、翻訳家であり、名古屋外国語大学学長・ロシア文学者の亀山郁夫さんが本作に寄せたエッセイを掲載する。
現在webDICEでは、日本で活躍する文芸翻訳家9名に「翻訳」という営為の魅力について訊ね、仕事風景を捉えた連載を掲載中。柴田元幸さん(アメリカ文学研究者・翻訳者)、きむふなさん(日本・韓国文学翻訳家)、野崎歓さん(フランス文学者・翻訳家)、野谷文昭さん(東京大学名誉教授・ラテンアメリカ文学翻訳家)、松永美穂さん(早稲田大学教授・ドイツ文学翻訳家)、飯塚容さん(中央大学教授・中国文学翻訳家)、和田忠彦さん(東京外国語大学教授・イタリア文学翻訳家)、鴻巣友季子さん(翻訳家・エッセイスト)、沼野充義さん(東京大学教授・スラヴ文学者)の書斎を訪ねている。また、映画の公開に合わせて、渋谷UPLINK GALLERYでは写真展「言語をほどき紡ぎなおす者たち」も3月3日(月)まで開催されている。
亀山さんのエッセイが掲載された『ドストエフスキーと愛に生きる OFFICIAL GUIDE BOOK』は現在発売中。webDICEでの連載をまとめた特集ページのほか、平野啓一郎さん、太田直子さん、伊藤聡さんらによる、お薦めドストエフスキー作品紹介などを掲載している。
翻訳の営みそのものが、
日常生活のなかでの細やかな気配りと深くこだましあう。
翻訳者は、本来、脇役であり、黒子である。だが、翻訳者が向かいあうテクスト次第で、脇役や黒子の営みが、それこそ偉業、勲功とみなされることが、時として起こる。それだけ偉大なテクストが、この世には存在する。シェークスピア、ダンテ、ラブレー、ドストエフスキーなど、古今東西の作家たちの名を思い浮かべるだけでよい。では、翻訳者に与えられる偉業、勲功の理由は、たんにオリジナルを著した作家たちにのみ帰するのだろうか。翻訳に求められる最大の要件とは、いうまでもなく、客観的な正確さであり、翻訳に携わる人間の人となりや主体性は、ふつう、かぎりなくゼロに近い意味づけしか与えられない。にもかかわらず翻訳には、不条理ともいえるほど大きな自己犠牲が伴うため、時としてオリジナルの作家以上の存在感を与えてきた事実も見逃すことはできない。ロシア文学を例にとるなら、ドストエフスキー、トルストイの翻訳に手を染めた米川正夫、江川卓、原卓也らの名前が知られるが、そうした錚々たる名のほかにも、たとえば、北御門二郎のように、翻訳という営みにまつわる意味合いの深さゆえ、長くその偉業が語り継がれてきた翻訳者もいる。北御門は、徴兵を忌避し、戦後何十年にわたってトルストイの翻訳にいそしんできた熊本の一農民である。
2011年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で話題となったヴァディム・イェンドレイコ監督『五頭の象と生きる女』(原題)は、ドイツを代表するロシア文学の翻訳者スヴェトラーナ・ガイヤーの数奇な半生を掘り起こした作品である。1923年に旧ソ連ウクライナ共和国に生まれ、2010年、ドイツ・フライブルグでこの世を去った。本名、スヴェトラーナ・ミハイロヴナ・イワーノワで、れっきとしたロシア人である。農業の専門家である父、白系ロシアの血をひく母との間に生まれた彼女は、スターリンが支配する1930年代に多感な少女時代を過ごした。1937年、父親は、いわゆる大静粛によって逮捕され、18カ月間におよぶ獄中生活を経て奇跡的に解放されるもつかのま、死去した。スターリン体制から「人民の敵」とされた家族に将来の望みはなく、母親は、15歳になる娘スヴェトラーナになしうる限りの教育を施すことになる。教育こそが、唯一のサバイバルの手段だったのだ。一方、スヴェトラーナが、最も得意としたのが、まさに敵性語であるドイツ語だった。
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より
独ソ戦勃発からまもなくウクライナはドイツナチスの占領下に入り、ガイヤーの語学的才能は、たちまちゲシュタポの注目するところとなる。このとき、彼女の行く末に決定的ともいうべき役割を果たしたのが、ドイツ国内での失策を理由に東部戦線に送られてきたナチス将校ケルシェンブロック伯爵だった。謎に満ちた高雅な伯爵は、ドイツ軍に協力する彼女に、ドイツ国内の大学への留学と奨学金を約束する。だが、独ソ戦最大の激戦地スターリングラードでの戦いでドイツ軍が破れ、ソ連軍のウクライナ侵攻が予測されるなか、ガイヤーは、ドイツ軍への戦争協力の追及を恐れる母とともにウクライナを去ることを決意する。ドイツでは、いわゆるオスタルバイターとして労働に従事するが、友人たちの努力の甲斐あってまもなくそこから解放され、大学に入学する。戦後は、思いのほか幸運に恵まれた。1960年以降、カールスルーエとウィッテンブルグの大学で教壇に立ち、ロシア語を講じながら、ロシア文学の翻訳に従事しはじめた。彼女の翻訳した作品として知られるのが、トルストイ、ブルガーコフ、ソルジェニーツィンの作品だが、ガイヤーの名を一躍知らしめたのが、ソ連崩壊後まもなく始めたドストエフスキー五大長編(『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』)の翻訳だった。本映画の原タイトルにある「五頭の象」とは、ほかでもない、この五大長編を言う。
この映画では、ドイツの小都市の郊外にひっそりと暮らすガイヤーの日常生活を映しだしたあと、65年ぶりのキエフ帰還の様子が、暗鬱な色あいのなか、詩情豊かに描き上げられていく。一度は捨て去った故郷に戻ることに、どのような意味があるのか。彼女の願い、それはただ一つ、少女時代に飲んだ井戸の水を、死ぬまでにもう一度飲みたいという願いを成就することだった。しかしその夢は叶えられず、その足でスターリン時代に死んだ父の墓に向かう。故郷の人々も、この見知らぬ異邦人に温かく接することはなく、そのまなざしにはどことなく敵対的な雰囲気が感じられる。ガイヤーは、故郷ウクライナにあって否応なく、故郷喪失者としての自分を認識するが、彼女の話を聞きに教室に集まった子供たちの表情は、意外なほど明るい。そんなガイヤーに、悲報がもたらされる。息子の突然の死―。ソビエトという呪わしき故郷とウクライナという懐かしの故郷から二重に離反された人間に襲いかかる新たな孤独―。ガイヤーは、どのようにして生きるモチベーションをとり戻し、いかに自らのアイデンティティを保ち続けることができるのか。
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より
印象的なのは、キエフ・ウラジーミル大聖堂を訪れる場面である。彼女はここでも気づく。「集団(ソム)」ないし「全体」というロシア的精神のコア、大いなる全体を構成するみごとな細部、それこそは、ロシア正教が千年の歴史のなかで培ってきた精神そのものであり、同時に、翻訳の精神そのものではないか。「集合」ないし「全体」へのロシア人の傾斜は、ロシアに全体主義の誕生をうながし、なおかつラーゲリと粛清という悲劇を生み出した負の力でもある。翻訳と全体主義との間に横たわる微妙な親和性の発見―。
映画では、全編をとおして、ガイヤーの、時として聖女のような、時として妖怪のような表情を陰影豊かに映し出していく。それにしても、世界と向かいあう彼女の手の、繊細で無骨な動きはどうだろうか。その手は、まるで彼女の人生そのもののシンボルのようにさえ感じられる。野菜をこまかくきざむ手、白のブラウスにアイロンをかける手さばき、それら一つ一つが世界とのふれあいであり、言葉との交感でもあるかのようだ。
翻訳の営みそのものが、日常生活のなかでの細やかな気配りと深くこだましあう。法悦にも似た喜びのなかで、半ば無意識の連想のなかから紡ぎだされる美しい箴言の数々―。
「洗濯をすると繊維は方向性を失う。その糸の方向をもう一度整えてやらねばならない。織りあわされた糸、文章も織物と同じこと」。
「翻訳は、左から右へとはっていく芋虫ではなく、翻訳はつねに全体から現れるものなのです」。
翻訳をめぐる、美しくユニークな洞察や箴言にもかかわらず、このドキュメンタリー映画が追究するテーマは、限りなく重い。監督のイェンドレイコは、当初、目的は手段を正当化するか、とのテーマ設定のもと、16世紀スイスの宗教改革の際に生じたカルヴァン派による大虐殺を題材とする映画を構想していたという。その構想中に、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(とくに「大審問官」の章)を読み、さらにはその翻訳者であるガイヤーという知己を得たところから、構想に劇的な変更が生じた。イェンドレイコが構想したテーマは、スターリン主義の時代を潜り抜けた一人の女性翻訳者の生きざまにはるかにヴィヴィッドなかたちで刻み込まれていることを知るのだ。
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』より
ガイヤーの第一の悲劇は、ナチスドイツへの加担者、祖国への裏切者としてのそれである。その烙印が、記憶と心から消え去ることはない。しかし同時に、スターリン時代のロシアが彼女の人生に及ぼした傷も拭いがたい事実として残る。だからガイヤーは、みずからの裏切りを正当化できる。しかし正当化できるからといって罪の意識が消えることはない。ガイヤーには、選択肢がなかった。彼女は、二つの全体主義の力によって幾重にも切り裂かれた存在なのである。
第二の悲劇は、彼女が、ゲシュタポの将校ケルシェンブロック伯爵の手厚い庇護をうけた事実である。ガイヤーと伯爵との間には、何かしら語るに語りえない謎が潜んでいるような印象を与える。事実、現時点においても、この制服姿の下士官が、彼女の親友をも巻き込んだバビ・ヤールの悲劇(一万人のユダヤ人虐殺を生んだ)に手を貸した事実を認めることを彼女は拒否する。それは、ゲーテやシラーは、ナチスドイツと何の関係もないとする彼女の主張からもうかがわれる。その主張に、むろん、誤りはない。だが、敢えてそのように語る彼女の言葉のどこかにある微妙なこだわりと微妙な矛盾が感じられてならない。いや、その曖昧な二重性、語りえない何かが、ドキュメンタリー映画としての比類ない価値とリアリティをこの映画にもたらしている正体ではなかろうか。
では、彼女にとって翻訳とは、何であったのか。
思うに、それは、二つの言語間、文化間を無言のうちに通りぬける、一種の罪障消滅の行為である。映画の冒頭で、ガイヤーはいきなりこう告白する。
「私には負い目がある」。
まさにその「負い目」から彼女を救い上げた存在こそが、ドストエフスキーだった。彼女は、かつて殺し合った人々の間に生じた亀裂を、ロシア人作家ドストエフスキーのドイツ語訳という営みを通して修復しようとする・・・・・・。しかし、それにしても、日々の生活のなかにすっぽりと溶け込んだ翻訳という営みの美しさ。ことによると、空しい時の流れのなかで持続するこの無償の美しさへの憧れから、人は、翻訳者をめざすのかもしれない。
(文:亀山郁夫 『ドストエフスキーと愛に生きる OFFICIAL GUIDE BOOK』より)
亀山郁夫 かめやま・いくお
昭和24年、栃木県生まれ。日本のロシア文学者。前東京外国語大学学長。現在は、名古屋外国語大学学長、東京外国語大学名誉教授。2013年2月、著書『謎とき「悪霊」』(新潮選書)で読売文学賞受賞。主な訳書にドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(毎日出版文化賞)のほか『罪と罰』『悪霊』など、近著に『新訳 地下室の記録』(集英社刊)。これらは、反響をよび新訳ブームとなった。
映画『ドストエフスキーと愛に生きる』
2014年2月22日(土)よりシネマート六本木、渋谷アップリンク他
全国順次公開
84歳の翻訳家スヴェトラーナ・ガイヤーの横には、華奢な姿に不似合いな重厚な装丁の本が積まれている。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『白痴』──言わずと知れたロシア文学の巨匠・ドストエフスキーの長編作品。それらを"五頭の象"と呼び、生涯をかけてドイツ語に訳した。1923年ウクライナ・キエフで生まれ、スターリン政権下で少女時代を過ごし、ナチス占領下でドイツ軍の通訳として激動の時代を生き抜いた彼女の横顔には、戦争の記憶が深い皺となって刻まれている。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。
■監督:ヴァディム・イェンドレイコ
■撮影:ニールス・ボルブリンカー、ステファン・クティー
■録音:パトリック・ベッカー
■編集:ギーゼラ・カストロナリ・イェンシュ
■出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット
■製作:ミラ・フィルム
■配給・宣伝:アップリンク
(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)
映画公式サイト:http://www.uplink.co.jp/dostoevskii/
映画公式ツイッター:https://twitter.com/DostoevskiiJP
映画公式facebook:https://www.facebook.com/DostoevskiiMovieJP
『ドストエフスキーと愛に生きる』
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◆名翻訳家スヴェトラーナさんにちなみ、柴田元幸さん、野崎歓さんなど、日本国内で活躍中の気鋭翻訳家9名の仕事風景をとらえた貴重な写真とインタビューを掲載
◆ドストエフスキーの新訳が大反響を呼んだ亀山郁夫さんによるエッセイ
◆平野啓一郎さん、太田直子さん、伊藤聡さんらによる、お薦めドストエフスキー作品の紹介
◆小林エリカさんによる描き下ろしイラスト
【図書コード】ISBN978-4-90072-859-2
【定価】800円(税抜)
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▼2014年2月22日(土)公開『ドストエフスキーと愛に生きる』予告編