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自身のプロデュース公演「DEDICATED 2012 IMAGE」が10月19日(金)より、KAAT神奈川芸術劇場にて行われるダンサー・首藤康之氏のインタビューをお届けします。
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失われつつあるイメージの復権のために
昨年6月、首藤康之は『DEDICATED』と題したシリーズを開始した。
「僕自身が本当にやりたいこと――プロデュース公演と言ったら大げさですけど、これは僕自身の呼びかけで、(一緒に作品を)作りたい人と、あるテーマに沿って作っていく。本当に自由にできる企画です。昨年は社会的にも3月11日以降、誰もが考えたと思うんです。自分自身が、なぜ、どういう意味があって生きているのか。これから何をすれば社会に貢献できるのか。社会に対して自分はいままで何をしてきたのか。いろいろな自問自答を、ほとんどの人がしたのではないでしょうか。僕自身もそのひとりで。僕はずっとダンスをやってきましたが、では、自分にとってダンスは何なのか。ただただ好きで、それが職業になったり、癒しになったり、たまには闘いになったり、いろいろなことがありましたが、去年のことが、もう一度、自分自身のなかでダンスを見つめ直す機会になったんです。僕自身の想いで何かを企画して、そして観に来てくださってるお客様と一緒に、一歩でも前に、僕のダンスを通じて進んでいければいいなという企画で、『DEDICATED』というタイトルにしました。この言葉は「捧げる」という意味で、この言葉もすぐに思い浮び、スタートしました」
自分自身を捧げる。そもそもそれは、身体を駆使するダンス表現の根底にあるものかもしれない。
「『捧げる』という意識はあまり持ったことがないのですが、実際ダンスをやっていて、もう一日24時間ほとんどダンスのことを考えてる状態で。物理的にもそうですし、すべての想いはダンスに帰着する。ダンスに往って、ダンスに還ってくる。それを『捧げる』と表現するのは大げさなのかもしれませんが、結果的にはそういうかたちになっているんだろうな、という気はします。『捧げる』といっても、そんなに重苦しいものではなくて、素敵なことなんだということを、みなさんと共有したいなと思っています。何よりも僕にとっては、劇場という場所がお客様とコミュニケートできる場所なので。僕はダンスを踊ることで、いろんな疑問符を投げかけたり、答えを出したりする。それには劇場がいちばん。そういう意味でも、僕にとって貴重な公演だと思います」
第2弾となるこの『DEDICATED 2012』の大きなトピックは、「映像」だ。操上和美が数年前に撮影した首藤の未公開映像作品の再編集版『The Afternoon of a Faun~ニジンスキーへのオマージュ~』や、世界的振付家であるイリ・キリアンをアドバイザーにむかえ、同じく操上撮影による映像と中村恩恵の振付による舞台のコラボレート『WHITE ROOM』、そして今年1月に公開された首藤のドキュメンタリー映画『今日と明日の間で』で披露されたダンス作品『Between Today and Tomorrow』の初舞台上演がラインナップされている。
「あのドキュメンタリー映画で、初めて自分の映像というもの――自分が話したり、踊ったりする姿を、あれだけ長い間見て、いろいろなことをイメージしました。普段、自分の舞台をライヴで見るということはできないだけに、あのドキュメンタリーを見たときに、僕自身も自身に対して、いろいろなイメージを持ったんです。もしかしたら、お客様も、僕自身のイメージを、映画を観ることで、何か持たれたのかもしれないし、また舞台とは違うイメージを持った方もいらっしゃるのかもしれない。すごくシンプルなことですが、イメージを持つことはすごく大事なことだなと、映画を通じて感じました。それで今回の副題は『IMAGE』としたんです。
イマージュは直訳すると、映像という意味もありますし、イメージする、想像する……いろいろな意味合いがあります。人って、イメージで生きてるところがあって。僕自身も、舞台の前には『こういう舞台だったらいいな』ということをイメージして、練習する。自分自身のイメージに(ダンスを)重ね合わせようとします。
イメージの素晴らしいところは、非現実的にもなれるところ。人は絶対、鳥のようには飛べませんが、飛ぶイメージを持つことはできます。なるべく自分自身で方法を見つけて、それに近づこうとする。それはとても素敵なことだと思います。でも、いまの社会情勢や情報社会を見ていると、イメージすることが、普段の生活のなかで閉ざされてる感じがしています。たとえば、イメージする前に、本当の情報が入ってきて、夢も何もなくなってしまうとか。あとはヴァーチュアルになりすぎていて、イメージ以前のものになってしまう。なかなか、いま生活しているなかで、『こうあったらいいな』というイメージを持つというシンプルなことが、だんだん少なくなっていってるような気がします。でも、イメージを持つことで、自分自身は成長してきたと思っています。
今回の公演では、自分のなかで作り出す映像やイメージ、イマージュというものと、そこに近づいていく自分、そこに到達しようとする、そして日々闘っていく、自分自身が探している感覚を、お客様と一緒に共有できればいいなと思います。この公演を見たことで、やっぱりイメージを持つことっていいよね、素敵だね、って思ってもらえるような公演にしたいです」
ドキュメンタリーを通して、彼は自分自身に何を見出したのだろうか。
「映像というものは、技術的に悪い部分は一目瞭然なわけです。いままでは映像は、真の感情みたいなものは伝わらないなあ、ダンスは生で見るべきだ、といつも思っていました。でも、普通のライヴは、圧倒的で、生のものをものすごく感じるんですけど、そのときに(見ながら)何かをイメージすることはあまりないんですが、映像は、イメージしながら見られるんです。そこがちょっと違うところかなと思っています。映像は、現実的なものから非現実的なものまであって、人によって想像の範囲は拡がる。でも劇場は、ライヴで踊っていると、(客席と舞台が)ひとつになっていくのはわかるけど、映像のほうがいろんな考えの拡がりを持てるような気がします。その拡がりが持てるものと、ひとつになっていく舞台でのパフォーマンスを一緒にしたら、どうなるのかな? という興味がすごくあります。そんなふうに今回の舞台は進んでいきます」
ルールがなければ自由は始まらない
首藤が希求するのは、シンプルなものだ。
「削ぎ落していきたいんです。たとえば外を歩いていると、いろんなものが付いてきますが、それを洗い流して、イメージして作り出していく。肉体もそうですが、常にシンプルでありたいなとは思ってます。でも、シンプルこそが難しい」
彼のダンスは、バレエでもなければコンテンポラリー/モダンでもない。技術でもなければ構造でもない。彼のダンスは精神そのものとしてそこにある。
「まず、いちばん強いのは、僕はバレエという確固たる基盤を持てているということだと思います。そこに還るととてもシンプルになれるというか、自分自身を出せるというか。基盤というものが必要なんです。何か軸があれば、きっとそのなかで自由になれるのですが、自由ってすごく難しい。自由ほど制約のあるものはないと思います。たとえばひとつのカンパニーに入っていると、ルールというものが存在します。複数で生きていると、ルールが存在しないといけない。でも、そのルールがあるからこそ、ちょっとそのあいだに見えてくる自由が素敵に見えたり、光がすごく大きく見えたりする。
実際カンパニーを辞めてすごく実感したのですが、まるっきりひとりになると、一見自由なんですが、急にがんじがらめにされたような気がした。それはルールが、自分自身のなかから、まったくなくなったからなんです。僕がずっと生きてきたなかでルールってなんだろう?と思ったら、毎日基本のレッスンをお稽古することだと気づいた。それをしていれば、すごく自由になれます。精神的にも、肉体的にも。だから毎朝決まった時間に稽古することだけは、フリーランスになってからも決めてやっていると、僕自身というものが保てる。その基盤を持っているということは僕の強みでもあるし、精神的にも自由になれて、僕のダンスにシンプルさを与えてくれる秘訣だと思っています」
自らにルールを与える。
「常にルールを与えないと、自由がないような気がして。なんでもやっていい、と言われると迷ってしまうと思います。でも、何かこれをひとつ使ってやって、と言われると、そこで自由になれたりする。たとえば部屋に入れられて、あなたは自由、と言われても、わからなくなると思う。僕の場合は、その部屋にレッスン用のバーがあると、レッスンして、踊れて、そこからどんどんどんどん拡がりを出していけます。何かひとつ、点みたいなものがあれば、それがスタート地点になるような気がします。本当に小さな点だけでいいんです。真っ白いキャンパスだけでは、そのどこに立っていいかわからない。きっと、真っ白な部屋に入れられたら、わからなくなると思います。そのきっかけが、僕の場合、バレエというものなのだと思います」
基点は、始まる場所であり、還る場所なのだ。
「そこに戻ると、いつも、すごくニュートラルになれるポジションですね」
コミュニケーションには遠近も大小も関係ない
素晴らしいダンサーがすべて映像的かと言えば、決してそうではない。首藤が語っている通り、ダンスはそもそも「ひとつになる」ために駆使されてきた歴史があり、その求心力は映像という拡散的なフォーマットとは相容れない部分がかなりある。だから、たとえば、あるダンサーの姿を撮影しても、それが単なる「生の記録」に留まってしまうことは少なからずある(これは演劇の舞台中継などのことを考えても理解できると思う。映像におけるクローズアップは、生の肉体によって発信されるパワーとはやはり別種のものなのである)。しかし、首藤は映像的である。そのダンスは映像に溶け合う。
「僕は映画が大好きで、映像にすごく憧れというものがあります。舞台は、すごく非現実の世界なのに現実的ですよね。そこに生身というモノがあって。でも、映像の世界というのは、同じく劇場で体験するものですけど、すごく非現実に連れていかれる。劇場内とは別の空間を、そのなかに持ってこられる。ライヴのダンスはその存在そのもの、その場所でしかあり得ないもの。だから、外の世界を、ライヴの場に持ってくると、面白いリンクをするんじゃないかと思いました。だから僕自身も、すごく楽しみにしているんです」
首藤が映像的なダンサーである理由は、彼がどんなところでも踊ってしまえる資質の持ち主であることとも無縁ではない。彼は、劇場にこだわらない、というよりも、あらゆる場所を劇場にしてしまう力を持っている。つまり、劇場ではない空間に劇場性を見出す。そうした意味でも、首藤は映像的、つまり、イマジネイティヴなのである。
「僕が9歳で、初めて劇場というものに出逢ったときに、客席にいようと、舞台にいようと、そのとき出演者と話しているわけではないのに、お客様と話しているわけではないのに、何かコミュニケーションがとれている感じがすごくしました。友だちでもないのに、友だちになったような感じ。8年前にカンパニーを離れたのですが、カンパニーにいたときはクラシックバレエが中心ということもあり、2000~3000人の規模の劇場でしか踊ったことがありませんでした。
でもカンパニーを辞めて、ジャンルの幅を広げていくなかで作品に合わせて200人の劇場で踊ったり、いろんな経験をしました。 そのときに、お客様がすぐそばにいようが、10メートル先にいようが、100メートル先にいようが、1キロ先にいようが、まったくコミュニケートの感覚が変わらなかった。あ、これは劇場の大きさじゃないなと。(コミュニケーションというものは)自分の想いであり、観客の想いなんだな、ということがわかったときに、いろんな場所で踊るのが楽しくなってきました。昨日は50人のところで踊ったのに、今日は3000人入るところで踊ってる。それをすごく楽しめるようになって。いまはどこか大地を与えてくれれば、 どこでも踊れるような感じがしています」
つまり、パフォーマンスは、現実的な距離や空間の大小には左右されないということだ。
「まったく関係ないと思います。(コミュニケーションは)小さなところでも、とれないときはとれないし。すごく大きなところでとれたり。(観客の)人数でもないし(舞台と客席の)近さでもないですね」
じゃあ、常に自分を試してる?
「そうですね。まだまだ、ダンスを通して、何が見つかっているか、わからない状態で。だからこそ、いろいろなことをやろうとしているんでしょうし、次に何が見えてくるか、僕自身にもわからないし、観客にもわからないと思うんですよ。それを一緒に探したいなと思うんです。せっかくコミュニケーションをとれる場所なので。
『これはこうだ』というものを提示するのは簡単なんですけど、『これはこうなんですけど、皆さんは、どう思いますか』というところまで、この公演ではつなげていきたいというのがテーマです。だから、作品のなかに余白を作って提供する。お客様が何を感じるのかわからないし、それを訊いてみたいし、僕自身も何を感じるのか未知の世界。本当に挑戦です、この公演は」
舞台の上で生と死を行き来しながら
首藤康之の核にあるのは、コミュニケーションする感覚だ。
「生まれて初めて劇場に入ったときに『それ』がついた、ということですね。自分らしくいないと、コミュニケーションはとれないんです。コミュニケーションというのは、思ってもいないことを言うことではなくて、思ったこと、感じたことを、そのまま言葉として出したり、何か通じ合ったりすることです。そして自分らしくいられる場所が、いちばんコミュニケートできる場所であるべきだと思います。僕の場合、それは劇場。実際、どういうコミュニケーションが起こったのかと問われると、困るんですけど(笑)。何か、自分らしくいられるんです。正直になれるというか」
つまり、それが「伝える」ということ。
「そうじゃないと伝えられなくて。劇場がいちばんニュートラルにダンスがしやすい場所です。ダンスをしていると正直でいられる自分がいる。やっぱり劇場が好きですね。見る場所があって、踊る場所がある。それはどこでもいいんです」
首藤は「劇場」を必要とし、そして愛している。
「プライベートでも、劇場に行くと、ニュートラルになれます。映画館でも、映画の出演者と共に、映画の一部になったような気がします。見ている人の空気、気持ちもわかりますし。すごく素敵な時間です。ひとつのものを見る、集中する。そういう場所に起こる何か――魔法というか。同じものを見ているわけですから。でも、それぞれ、いろんな感情がわいてくる。ひとつの感情じゃない。そこがすごく面白いなと思います」
訊いてみたいことがあった。観客の視線は無数だ。そのまなざしがこわくなったりはしないのだろうか。
「2000人いれば、4000個の目があるわけで、そう考えるとこわいですよ。でも、その恐怖が快感に変わる瞬間があります。そこは自分自身のなかで楽しんでいる。それは初めて舞台に立ったときから変わりません。(舞台に)立つ前は、本当に逃げ出したくなるくらいの緊張と恐怖に襲われますが、一歩舞台に足を踏み入れて、何か音が鳴って動き出すと、その恐怖が少しずつ薄れてきて、喜びに変わっていく。人生の全部を一瞬にして経験しているような感じです。大げさに言えば、舞台の前は全部血液を抜かれる感じがします。その血液を舞台でお客様に与えられて生き返ってくる。死から生に。そして生からまた死に。生き返っては死んで、死んでは生き返って。いつもそれを舞台の上で体験しています」
変わらないもの。
「それは変わらないですね。初めて舞台に立ったときから。舞台に立てば立つほど、その怖さも、その喜びも、より知っていく。だから、そのことには慣れないです。血を抜かれる頻度は高くなる」
抜かれるから、入れられる。入れられるから、抜かれる。
「そうなんです。そこは切っても切れないでしょうね。でも、抜かないと、それ以上血液は入らないものだから、きっと抜いて正解なんでしょうけど……。本当に怖くなるんですよ。危険なくらい怖くなります。寒気がしてきて、どんな舞台でもそうなんですけど。舞台に出た途端に、一気に血が戻ってくる場合と、なかなかその血の気が戻ってこない、どうしよう……というときと、両方ある。毎回違います。それがライヴの面白さであり、大変さでもあります」
ライヴは人生。人生はライヴ。生きて死んで。死んで生きて。そうやって首藤康之は自分を捧げている。
取材:相田冬二 撮影:平田光二 ヘアメイク:小林雄美
首藤康之'S ルーツ
やっぱり、劇場ですね。何かひとつのことをやりたい、という想いが詰まったところに人が集まってるから、素敵なことが起こる。だから劇場って好き。何か目的意識がある。みんなの目的は同じだから、シンプルなんです。「気」が集まると思います。そして、何かが生まれるのだと思います。
首藤康之(しゅとう・やすゆき)プロフィール
15歳で東京バレエ団に入団、モーリス・ベジャール振付『ボレロ』、マシュー・ボーン振付『SWANLAKE』などで主役を務め高く評価される。退団後は、映画『トーリ』や、『SHAKESPEARE'SR&J』でストレートプレイに出演するなど幅広く活躍し、2007年には自身のスタジオ「THESTUDIO」をオープン。同年、ベルギー王立モネ劇場にて『アポクリフ』世界初演。その後世界中で上演された成果を認められ、第42回舞踊批評家協会賞を受賞。昨年はKAAT(神奈川芸術劇場)にて『DEDICATED』を主催。今年3月にはウィル・タケット演出・振付『鶴』に主演するなど、国内外を問わず活動の場を広げる。第62回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
http://www.sayatei.com
DEDICATED 2012 IMAGE
2012年10月19日(金)~10月21日 (日)
出演者:首藤康之、中村恩恵
会場:KAAT神奈川芸術劇場(横浜市中区山下町281)
チケット情報はこちら
昨年6月、首藤康之がスタートさせ好評を博した「DEDICATED」シリーズ。第二弾は舞台をホールに移し、"IMAGE"と題して、舞台と映像のコラボレーションに挑む。
椎名林檎の音楽、中村恩恵の振付によるソロ(『Between Today and Tomorrow』)の初の舞台上演、写真家・操上和美と首藤による未公開映像作品(『The Afternoon of a Faun~ニジンスキーへのオマージュ~』)の初上映、イリ・キリアンをアドバイザーに迎え、中村恩恵の振付、操上和美の映像とのコラボレーションによる新作(『WHITE ROOM』)を世界初演する。