『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』の大浦信行監督。
70年代学生運動華やかりし頃に反体制運動に目覚め、80年代は政治活動にのめり込み、獄中で執筆した『天皇ごっこ』(1995年)により文学界の寵児となるものの、2005年に自ら命を断った作家・見沢知廉。『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』の監督・大浦信行はこれまで、絵画や彫刻そして映画と多岐に渡り、天皇や憲法といった日本の枠組みとそこにある闇や歪みを表現してきた。今作において大浦監督は、三沢を巡る多くの関係者の証言に加え、架空の〈妹〉を登場させ、彼女を狂言回しとするロードムービーのようにエピソードを構成。現実と妄想がないまぜになった独特のスタイルから、三沢が語った言葉の同時代性を捉え直そうと試みている。
日本に与えられた近代とは果たしてなにか、ということをもう一度疑ってみると
──見沢知廉をモチーフにしようと思われたのは、どのようなきっかけからだったのでしょうか。
これまでの映画作品『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』『9.11-8.15 日本心中』では、針生一郎さんや重信メイさんを主人公にして、日本の近代の見直しをやりたかったんです。といっても、こちらの観念だけが空回りしてしまうから、主人公の針生さんや重信さんに寄り添ってその言葉を確実に描かないと、と思っていた。その流れがあったからこそなんでしょうけれど、『天皇ごっこ』は『日本心中』の第3部じゃないかと言ってくれる人もいて、その意見も当たってはいるんですよね。だけど、自分としてはその流れとは一回切れているところがあったんです。というのは、見沢をやろうと思ったのは、もっと個人的な理由で、見沢と自分がコインの裏と表の関係じゃないかと思ったからなんです。
『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』より (c)『天皇ごっこ』製作委員会
見沢は政治的なことをやり、文学もやり、そこから殺人事件を起こすまでに至りましたが、自分の場合は若いときから絵とか映画しかないというのが自明のごとくありました。その事でしか社会と繋がっていないから、表現だけで必死にやってきました。この社会のなかにいて適応しづらい自分を無意識的にも意識的にも知っていたんです。自分と見沢は、全然違うように見えるんだけれど、抱えている心の闇や、繊細な部分、現実を想像の世界で一瞬超えていっちゃうところは共通するんじゃないかと思った。だから自分と見沢が現実を超えたところで双子かもしれない、みたいなこともありえると思うのね(笑)。
双子の一方である僕が見沢を表現するとすれば、映画に出てくるさらなる分身の〈妹〉は、結果として監督とイコールということになります。〈妹〉を演じたあべ あゆみさんは劇団再生という見沢知廉の劇をよくやっている劇団の女優さんですけれど、あべさん自身もこの映画のプロセスを通してほんとの双子の妹になる瞬間を感じたかもしれない。そのような分身としての妹を抱えながら僕自身は、見沢の社会に適応できない生き方への共鳴と、なにかやるだろうという狂気をどこかにはらんでいる。その点は、見沢と僕は似てるなと思った。
ひとりの人間がそうならざるをえなかった背景はなんだったのか、それを突き詰めれば見沢が違和感を感じていた近現代日本ってなんなんだということになってくる。そうすると改めて『日本心中』ともう一回重なってきますよね。日本に与えられた近代というのは果たしてなにか、ということをもう一度疑ってみるということでもあるかもしれない。
『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』より (c)『天皇ごっこ』製作委員会
──ご自身でもよりパーソナルな仕上がりになったという意識が強いんですね。
それは喜ばしいことでもあるんですよね。表現って最初はどうしても現実を超えた想像力とか観念というところから入っていくじゃないですか。そういうものはもっと昇華されて、自分自身の無意識のなかに入っていかなければいけないと思います。その無意識は自分自身をも超えて人々と共有する無意識になっていきますよね。その共有感を作るには、まず個人的なところから入っていかなきゃ偽物だと思うんです。
──そこから監督の分身でもある〈妹〉が関係者に話を聞いていくという構成になったのですね。
まず最初、奄美にロケハンに行ったんです。自明のごとくあるこの現実を疑う視点を作るために、奄美・沖縄に代表される、日本の歴史や文化と違う時間が流れている場所から撮影を始めたかった。沖縄の文化のリズムは曲線的だし、そこに〈妹〉を置いて見沢を見る旅を始めることで、時系列な歴史とは違うものが見えてくるんじゃないかと思ったんです。他のドキュメンタリー作家と僕とでは、表現において違いがあるとすれば、そこに虚構を持ち込んでいること。逆説的にその虚構を通して、見沢という日本近現代のなかで翻弄され抹殺され亡くなっていったひとりの体現者を描くという方法も可能になるでしょう。
『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』より (c)『天皇ごっこ』製作委員会
──見沢さんへの複雑な興味からスタートして、その監督の思考のプロセスを見ているほうも自ずと感じることができる立体的な組み立てになっていますし、見沢さんをめぐるロードムービーのようでもあります。
現実の中に虚構を織り交ぜていくというのは、一見荒唐無稽のように見えるかもしれないですが、逆にある現実のなかにひとつの意味を見出していくには想像力それ自体が試されてきます。それは時系列に並べられた社会に対する挑戦でもあるんです。現実と虚構の狭間を行ったり来たりしながらもうひとつのリアルを作り出すというやり方によって、観客の無意識を刺激する。だから僕にとっては、映画は絵や美術よりももっと古い時代にできていたという定義なんですよ。人間は縄文以前の時代から映画を知っていたというのが僕の持論なんです。アルタミラやラスコーの洞窟画よりももっと古いと思う。映画は美術よりも、より人間の無意識に働きかけることが出来る。そのような映画の時空の中で、作り手と観客は出会う。作り手にとって重要なのは、観客の無意識をどう刺激するかだと思うんです。
今回の映画を通して、2008年に起きた秋葉原事件も違った角度から見ることが可能なんじゃないかと思う。加藤智大の承認願望とか、現実のなかに自分の居場所を見い出せないという問題は、見沢とも重なりますよね。同じ問題を抱える今の若い人が、この映画で見沢に出会うことで、かつてこんな人がいたんだと発見してくれればいい。
見沢が自分の本に『天皇ごっこ』と“ごっこ” = “遊び”とつけたのは、歴史を反転させたいという意味もあったんではないか。我々がいるこの場所を純粋な目で見るために、一回この現実をチャラにしたいという衝動、つまりテロにつながる。その後に見えてくる本来の場所、それはもはや日本という名前じゃないかもしれない。それを具体的に現代にどう表現としてできるかというのが、我々に与えられた重要なテーマであり宿題でもあると思うんです。
(インタビュー・文:駒井憲嗣)
大浦信行 プロフィール
1949年富山県生まれ。1976年より86年までニューヨークに滞在。昭和天皇を主題としたシリーズ「遠近を抱えて」14点が日本の検閲に触れ、富山県立近代美術館によって売却、焼却処分とされた。それを不服として裁判を起こすも、一審・二審を経て、2000年12月最高裁で棄却とされ全面敗訴。2009年、再び沖縄県立博物館・美術館において、「遠近を抱えて」14点の展示拒否・検閲が行われた。天皇作品問題を描いた映像作品『遠近を抱えて』(1995年)、美術・文芸評論家針生一郎を主人公に据えた『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』(2001年)を発表。その続編ともいうべき、ジャーナリスト・重信メイという新たな主人公を得た『9.11-8.15 日本心中』(2005)では、崩壊の予兆を孕んだ激動する現在の世界に真正面からぶつけ、あるべき未来の姿を指し示した。
▼『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』予告編
映画『天皇ごっこ 見沢知廉・たった一人の革命』
新宿K's cinemaにてロードショー公開中
他全国順次公開
監督・脚本・編集:大浦信行
撮影・編集:辻智彦
録音:川嶋一義
出演:あべ あゆみ/設楽秀行/鈴木邦男/森垣秀介/針谷大輔/雨宮処凛/蜷川正大/田村泰二郎/多田脩真/西林未羽/漣圭佑/中島岳志/高橋京子
特別協力:高木尋士(劇団再生)/濱田康作
製作:国立工房
配給:太秦
2011/日本/HD/カラー/115分
公式サイト