左から宮川秀之さん、妻のマリーザさん、117クーペをデザインしたカーデザイナーのジョルジェット・ジウジアーロさん
60年代イタリアに渡りジウジアーロと数々の名車のデザインを手掛け、その後トスカーナでオーガニックワインのための農園を設立し、そこで各国の孤児を迎え入れたり、日本のひきこもりの若者を受け入れて自立させるためのプログラムをスタートさせるなど、旺盛な行動力と世界を繋ぐ交友関係で活動する宮川秀之さんがエグゼクティブ・プロデューサーを務める映画『ピンク・スバル』が現在、渋谷アップリンクで公開中だ。ヨーロッパのデザイン界に飛び込んだきっかけ、『ピンク・スバル』の企画を持ち込んだ小川和也監督との出会い、そして現在の日本に必要とされるデザインの力までを聞いた。
デザインは誰が選ぶか、どういうプロジェクトにするか、企画する人が大切
──宮川さんのお仕事で最も知られているのは車のデザインですが、経歴を拝見していると、農薬を使って大量生産に向かうのとは別の、農薬を一切使わないオーガニックのワインを作るという、言わば食のデザインをやられている。そして今度は映画という、広く言えば文化をデザインされました。しかも日本人の小川和也監督がパレスチナとイスラエルの国境で撮るというようなとんでもない企画に賛同された。そうした、宮川さんのデザインするスピリッツをお話聞かせていただきたいと思ったんです。まず、日本を飛び出して会社を作り、ヨーロッパのデザインを日本の社会に移植されたというところからお聞かせ願いたいです。
1960年ローマオリンピックの年に、相棒とふたりで山口モーターのバイクを手に入れて、日本を飛び出して世界一周の旅をスタートさせました。インドからスタートしてパキスタンを通り、オリンピックの寸前にローマに着くんです。スポンサーはついていたけれど、お金はあまり出していただけなくて、ほとんどお財布が空だから、行く先々で日商さんのお世話になって、デリーとかパキスタンのカラチで一宿一飯の恩義を重ねながら行くんです。
ローマに着いても、稼がなくちゃいけない。そこで現地で毎日新聞の貴賓の方の案内をしたりするアルバイトを一カ月やりました。毎日新聞社主の高石真五郎をはじめ、力道山、井上靖、有吉佐和子、そうした歴々がローマでオリンピック観戦されて、記事になるわけです。井上靖先生に有吉佐和子さんを紹介していただいたり、力道山と車の話をしたり、「おい、今日は着いてくるか」と言われて力道山のお供してついていったり、そういう役得みたいなことがありました。20歳でしたから、体当たりでいったらなんとかなるだろう、外国語を何カ国語もやってる暇はないと、出たとこ勝負のスピリットで行きました。力道山なんかスケールが大きくて、当時ベンツの300SLに乗っていて、それを越えるのはフェラーリしかない、俺はフェラーリを注文して帰るんだと。そして僕らの125CCの二輪を見てこんなんで世界一周なんてできるもんか、もっとでかい車でやれ!と言われたんです。
ローマではカルチャーショックを受けました。まず食べ物がうまい。それから水がきれい。中東を走れば、お水というのはコップを透かせばゴミがいっぱい見えるのが普通でした。だからそれを飲んでアメーバ赤痢になったりなんかしました。そういう驚きがあって、車好きの私にとっては、とにかくローマを走っている、特にオリンピックのために集まってきている車は素晴らしかった。直感的に、これを当時1年間で40万台しか作ってなかった日本の立ち上がりつつある自動車工業に移植することで、日本の車が美しくなり、輸出関連に繋がれば、自分の仕事にもなるし、日本の為にもなると思った。
『ピンク・スバル』のエグゼクティブ・プロデューサーを務めた宮川秀之さん
──20歳で日本の為になるだろうと考えたんですか。
当時は日本の車ってかっこよくなかったんですよ。走りながら、各大使館に寄るでしょ、そうすると大使館で働いている人たちが日本の車に乗ってないんです。特権で買える外車を買って、終わったらそれを日本に持って帰ってなにがしかの利益にするような時代だった。だから日本車を誇りを持って乗れる車作りをしないとだめじゃないかなと心に響いていわたけです。
だから行ったときに、これは俺のライフワークになるな、いいデザインをするということを移植すれば、必ずや日本はその勤勉さでいいものができるんじゃないかという思いがあったんです。
──それは性能も含めたデザインですか?
もちろん性能も含めていますけれど、とにかくアウターデザインがあまりにも日本の車は良くなかった。いま60年頃の国産の車を見れば、装甲車みたいな車でしょ。
ローマオリンピックの後、アルファロメオとかフランスのルノー、英国のモーリスを見学しながら、車作りというのはかくあるべしという勉強をして、それでトリノのモーターショーに行くわけです。それにはいろいろ知恵を使って、たまたま僕の同級生が「モーターマガジン」の編集に携わっていたので、特派員として相手のメーカーに申し入れ、それで工場やモーターショーを見せてもらって、原稿から写真から手がけて雑誌で発表していました。その後、モーターマガジンの編集をやっていた同級生が、1962年に小林彰太郎と一緒に立ち上げた業界ナンバーワンの雑誌・CAR GRAPHICを創刊のときからお手伝いしていて、6号目のフェラーリ特集なんかは、僕が3分の1くらい原稿を書きました。今も書いています。
CAR グラフィック 1962年4月創刊号表紙(写真提供:CAR GRAPHIC)
──そこまでは普通の人もがんばればできそうなところですが、その後どうなるんですか?
1960年のトリノのモーターショーに行ったときに、プリンス・スカイラインスポーツという車が展示されていたんです。そのコンパニオンをしていたのが、後に私のワイフになるイタリアの女性で、一目惚れして仲良くなるんだけれど、彼女は既にその時広島に留学が決まっていた。ローマと広島でコレポン(文通)をしながらお互いに愛を高め合って、61年にいちど日本に帰りまして、世界一周の旅の中断をスポンサーと後援者に告げて、彼女と一緒に手を取り合ってイタリアに戻るんです。それで結婚して、自動車のデザインの仕事、日本の自動車工業に移植するという仕事を始めるわけです。
そのときに、たまたま木下惠介監督が日伊合作映画の企画を持っておられて、大使館のほうから案内せいということで、10日ほどイタリアを案内したんです。そこで木下監督にすっかり気に入られて、「君は気が利くから僕の助監督をやってくれ」と言われて、映画界に入るか、自動車業界に入ろうか大いに迷いました。
結局、妻になるイタリア女性のお父さんがランチャの重役だったこともあって、彼女の留学先である広島のマツダの(松田)恒次社長に、必死にイタリアのデザインの導入を薦めたんです。恒次社長は立派な方で、フェリクス・ヴァンケルと提携してロータリーエンジンを輸入し実用化した方ですが、彼が「お前の話はおもしろい、デザイン課長を付けるから、一緒にイタリアに戻ってくれ」と。
──企業のトップが若者の話を聞くなんて、いまの時代でそういう風土はないと思いますが。
そんなことはないですよ。それはやり方と何を持っていくかですよ。恒次社長のような傑物の人もいるんですが、そこに着くのに、ただ俺に会ってくれっていっても無理で、いろいろ作戦を練りました。あとは、俺のため、あなたのため、日本のためにどうしてもというパッションです。今の日本の置かれている状態でも、なにをしなくちゃいけないか考えるということでは共通していますよね。
イタリアに戻りまして、マツダの課長さんにお見せして、私はこういうことをタイアップしたらいいんじゃないかとベルトーネという会社を紹介します。
──そこでマツダとベルトーネが提携するわけですね。
私がベルトーネの代理店みたいなかたちになって、マツダでルーチェとかロータリークーペという車を作るんです。 マツダをスタートにひとつ実績ができるわけで、今度はいすゞ自動車からデザインのことをいろいろ教えてくれという話がありまして、今度はいすゞの仕事をカロッツェリア・ギアさんとくっつけて、117クーペが生まれます。
──宮川さんがいすゞさんにプレゼンテーションしたのが117クーペなんですね。
最初の仕事、2番目の仕事とやってるうちにギアとしてはずっといすゞがお得意さんになる可能性がありました。それじゃあ1台くらい、我々の予算でカスタマーに迷惑をかけない範囲でなにかモデルを作ってあげる余裕があるよ、と。それで私はクーペならばいけるんじゃないかということでプロジェクトにして作るわけです。中はいすゞのベレットのエンジンシャーシをもらって、それを上をはがしてボディを架装する。そういうやり方で、こんなすばらしいものができますよ、と。いすずはモーターショーの成果をみて、これならいけるんじゃないかと正式発注してくれて、第2号車をつくります。その2号車を東京モーターショーに持っていった。
──イタリアのデザイン会社は先行投資することはあるんですか、プレゼンするのは自分の資金ですか?
頼まれるのが商売だけれど、ときどきプロモートするために、プレゼン用の車を自己資金で作ることもあります。相当な金がかかりますが、それはリスクですよ。カロッツェリア・ギアのときは既にギアの専務と私で一緒に日本に来たり、そうした友人関係がないと、そこまではできないです。
──今までプレゼンしたけど、気に入られなかった車もありますか?
それはもちろんありますよ。でもプレゼンの前に図面の段階でやりとりがありますから、モデルをプレゼンテーションしてまったく使えないということはないです。一部を使うとか、再度デザインするとか、半分金を出すとか、そこからはビジネスになります。非常にいい人間関係ができればエンジョイアブルな仕事です。
──そこから他のメーカーにもどんどん広がっていくんですか。宮川さんの仕事によって日本の車がかっこよくなっていったんですね。
三菱、スズキ、トヨタ、ホンダと何十年と続いていることは自負しています。もちろん私の関係だけじゃないですし、私も売り込んだり、一緒に仕事をさせてもらっているけど、1960年にその仕事をスタートしたときに、既に日産、トヨタは違うラインで手を付けていまししたし、コンピート(競い合う)していました。
──日本のデザイナーでは、世界に通用するデザインというのは、当時も今でもできないものなんですか?
できますよ。やっぱりデザインというのはデザインする人じゃなくて、誰が選ぶか、どういうプロジェクトにするか、企画する人が大切です。その人の目とマインドが高ければ高いほどいいレベルのものができます。
──60年当時はそれがまだなかった。
というより自動車会社にデザイン部がなくて、デザイナーは設計部に属していた。でも当時のアメリカやヨーロッパは、いわゆるデザイン・オペレーションが社長直結で大切なアイテムになっていたんです。
──日本のなかでデザイン部ができて、宮川さんから見てこれなら使えるな、というものが出てきたのはいつぐらいからですか。
早かったですね、1966、7年にはそれぞれ各メーカーとも作りました。私も日本のメーカーのデザイン部から仕事の注文をもらって、同時にイタリアで教育を行う、というケースはずいぶんありました。
──その後、宮川さんのようなコーディネートの仕事は減っていくんですか?
いや、かなりのボリュームはずっと続きましたね。ちょうど50年続いて、エンジョイして、ビジネスもさせてもらって。今は他のことをできる余裕があるというか、そろそろ卒業だなというところですかね。
──自動車から家電とかは?
それはすぐやりました。ニコンのカメラ、F3からはじまって、SHOEIのヘルメット、セイコーの時計、ソニーのテレビ、イタリアではミシンとかスキー靴とかもっとありますね。そうした仕事は、デザイン文化のうえでも私自身にも非常にプラスになりました。人との交流も、カーメーカーだけじゃなくて、いろんな部門に広がって、カネボウとか資生堂とかも男のためのアフターシェービングのボトルなどでおつきあいさせていただきました。
──個人的にはご自分のお仕事のなかでどの車がいちばん好きですか?
やっぱりいすゞは比較的思い切ったものをやらせてもらいました。その点では非常にいいけど、スズキさんとかダイハツさんとも軽自動車やオートバイの開発とかロータリーバイクのデザインなど、いろいろエンジョイしました。
ワインは自分のライフスタイル
──そうしたプロダクトデザインをやられていて、平行してワインを始められたんですか?
それはね、生き様というか、自分のライフスタイルですね。1980年頃に、イタリアでは脱サラリーマン、脱都会、核家族でない、昔のような大家族制に近い生き方を求める人たちがいんたんです。そうした親戚や地域コミュニティを大切にすることを新生活運動といいました。仲の良い4家族が集まって、イタリアの風光明媚で気候の温暖なところを探して、そこに農園活動を共同に行って、子供を育てる。今の生活は核家族だから、お父さんは仕事でほとんどいないし、家庭で教育ができない。だからいろんな問題もおきるわけで、大家族制に近い家族の生活を何家族かが集まって行えば、宿題を見てあげたり、青春の話を聞いてあげたり、協力しあって子供教育をすることができるメリットがあるんです。それで都市の生活に見切りをつけて、トスカーナの海が見える素晴らしい場所を設定して、1983年から新生活運動に参加します。
でも私は、かなり大切なプロジェクトを預かってましたから、いきなりそこに100パーセント参加はできない。なので、ウィークエンドになるとトスカーナに行ってみんなと回遊したりして、月曜にトリノに戻ってくる。1週間に1回トリノからトスカーナまで450キロの往復を800回やりました。
──そのときはどんな車に乗ってたんですか。
それはいろんな車をテストも兼ねて乗ってました。合計80万キロ、バカですよ(笑)。それが非常に楽しいんだけれど、厳しいですよね。子供たちは新生活運動に反対でしたし、トリノの仕事も成功してきていたから、どんどん忙しくなるし。子供も大きくなってそれぞれ親父のヘルプを必要としたし。でも亡くなったワイフが盛んに提唱していたので、私も引きずられていって、うちの子供たち、子供と孫を入れると総勢30人の家族になりました。
──イタリアではその新生活運動は支持されていったんですか?
ある少しの期間で、いまはあまりないです。日本と同じで核家族が中心です。イタリアと日本は離れているけれど、非常に似てますよ。島と半島ですし、食べ物も似ているし、少子化という同じ問題を抱えています。
──そうするとまずワインを作ろうという動機よりも、トスカーナでの生活が先だった?
ワインを作るというのは、だいぶ後のこと。ワインの目的は非常に二義的で、今でもそうです。ただ1999年から私が農園のシングルオーナーになって全部を形作るようになってからは、プロにお願いして、エノロゴ(醸造家)からアグロノモ(生産者)から、農業アドバイザー、ワインメーカー、それからカンティーナ(ワイン庫)のチーフを一新して、一流のプロにお願いして、葡萄作りから始めたんです。
──それは車のデザインを作るチームのトップにいらしたのと同じようなもの作りでしたか?車は見た目がかたちとしてあるけれど、ワインは個人的な嗜好性が違う。プロデューサーとしてこういうワインを作りたいというゴールのイメージはあったんですか?
プロにお願いして、最先端を行く、というのは車もワインも同じです。やるなら、世界のレベルに入れるものをやりたい。そして、ひとつ言えるのは、ワインもファッションがあります。5年、10年単位くらいで世界のマーケットが動きます。例えばシラーとかサンジョベーゼといったワインをみんな欲しがって、それをたまたま作っていれば伸びる。でも作るためには、苗を植えてから最低10年かかります。
──10年後に何が流行るかが解らないといけないわけですね。
それにはかなり勘が必要ですよね。思い切ってできるかどうか、流行に関係なく自分の信じている道を行くか、そのへんは経営者の裁量ですよ。
──オーガニックで、と決めた理由は?
これはライフスタイルですね。薬をたくさん使って大量生産するか、それとも自分が食べたり飲んだりできる、安心して食べられるものを作る姿勢、それがまさにオーガニックに通じると思うんです。
宮川さんとオーガニックワイン・ブリケッラ (c)オガワカズヤ
──オーガニックで苦労されたことは?
やっぱりオーガニックは安かろう、まずかろう、臭かろうという宿命を聞いていたんです。最近はオーガニックのいいものができてきて、かなりのレベルになったけれど、10年以上前はある値段以上では売れなかった。99年に私がオーナーになってからは、オーガニックであることはライフスタイルだから変えるわけにはいかないから、なんとしてもオーガニックでやる。けれど、これおいしかった、とラベルを見たときに、オーガニックだというのが解れば、よけいいい。ということだと思うんです。
だからとにかく、ワインを売るためにはストーリー性が必要です。個人個人の異なる嗜好に対して、お互いが乗ってくるようなストーリーを作る必要があるということです。
──宮川さんのワインは賞を獲られていますが、賞を獲ってもそこで大量生産ができないのがオーガニックの難しいところでは?
まだオーガニックのマーケットは大きくないですし、特にワインの場合は厳しいですよ。僕はワインってもう少し儲かると思ったけど、持ち出しが10年以上続いています。いいものを作るには、特に人間のコストがかかる。おそらく僕の代で利益を出すのは難しいでしょう。次の世代くらいで、「じいさんがよくやった」くらいじゃないですか(笑)。だから明日を信じてやっています。
──車のプロダクトのデザインのトップで企画やプロデュースをされたのに比べて、自然が相手というのは難しいですか。あるいはそれはマーケットの問題ですか。
両方ですね。自然は毎年幸運を恵んではくれないですよ。ひょうも降るし、今頃でも急に冷え込みが厳しくなって芽がやけちゃったり、マーケットが要求しなくなったり、そういうファッションにうまく乗らなきゃ、倉庫がだんだんいっぱいになってきてしまう。売れなくても葡萄は育ちますから、毎年育てるのを欠かすわけにはいかないし、だから楽しいけども、厳しいですよ。
『ピンク・スバル』は私の好奇心をくすぐった
──現在はもうプロダクトデザインはやってないんですか。
私個人はやってません。トリノにあるコンパクトというプロモーションの会社で。長男のマリオはジャン・アレジのマネージメントを20何年やっていて、『ピンク・スバル』のプロデュースもしています。次男は日本のサッカーのザッケローニ監督のマネージメントをやっています。
──それで『ピンク・スバル』についてですが、小川監督が宮川さんの農園で働いていたのがきっかけだとか。
さぼってましたけどね(笑)。映画のことを考えてたんじゃないかな。最初にNHKヨーロッパ総局の近藤さんから、ニューヨークで勉強している小川和也という青年がいるので、非常の将来嘱望されるから、しばらく農園で預かってくれないかという話がありました。
それで、いろいろ話を進めて農園で預かることになって、そのうちに彼はじっとしていない男ですから、近在の文化祭などに積極的に参加して、アラブ人と知り合うようになるんです。そのアラブ人が主役のアクラムです。そのアクラムの奥さんがイタリア人でオペラ歌手。芸能一家で、その招待を受けて彼が夏休みにイスラエル国内にあるパレスチナ人の街に行くわけです。帰ってきて彼が「スバルが希望の星として扱われているサクセス・シンボルになっている国です」と、私の好奇心をくすぐるわけです(笑)。
──富士重工業とは仕事をされたことがあるのですか?
もちろんありますよ。スバルはイスラエルで盗難車のベスト5のトップなんです。盗まれるということは憧れる対象ということです。なぜスバルがそんなに人気なのかというと、車が優秀であることはもちろん、アラブ国に不買同盟というのがあり、スバルはイスラエルに進出したのでアラブでは売っていない。他のトヨタや日産はアラブに主力を置いていて、イスラエルは無視した。スバルは大量生産メーカーじゃないからイスラエルを狙うことで、希望の星になったんです。
映画『ピンク・スバル』に登場するスバル・レガシィ
──イスラエルに進出して、アラブ人はスバルをどう思っていたんですか?
優秀な日本車がほとんど入ってこないので、入ってくるスバルは認められたんです。イスラエルから盗んできて、バラして組み替えて、ナンバーを替えてパレスチナ人の国で売るというシステムです。パレスチナ人とガザ地区でしょっちゅう紛争がありますが、タイベの街というのがこの映画そのもので、政治的な問題よりも、撮れば自然に平和的な光景が見える。だから喜劇になりうると、非常にユニークな作品になるんじゃないかなという期待がありました。
──でも映画への投資は、ビジネスとして考えるとリスキーではないですか。このプロジェクトのどこに惚れて最終的にゴーサインを出したんですか?
百姓としてはダメかもしれないけれど(笑)、小川君の才能です。それまでもPR映画とか小作品を彼にやってもらったことがありましたし、向こうに行くためにソニーにお願いして、ソニーの最先端技術のカメラを貸与してもらったり。でもここまでお金がかかるとは思わなかった(笑)。
──できた作品をご覧になっていかがでしたか?
実は、最初はあまり気に入らなかったんです。やはり4カ国語で撮るというのはいろいろ文化の違いもあるし、スペクタクルにしてはちょっとナイーブだし。でも小川監督もその後編集で手を入れて、今のバージョンになったんです。もちろん、もっと良くなると思いますが、現在のバージョンで満足しています。立派だと思いますよ。
コミュニケーションがほんとうにへたな国民が日本です
──現在の日本ですが、震災が襲って、その前からも日本は世界と比べるといろいろ既得権利を持ってる人たちがまだ牛耳ってて、戦後に政権交代はしたけれどなかなか社会構造自体が変わっていません。今のこの日本の状況について宮川さんはご意見ございますか?
僕がいちばん心配しているのは、原子力発電です。日本の国民の不幸は、東京電力という外国とあまりコミュニケーションのない会社でああいうことが起こったりすることです。大変なことですよ。映画人、黒澤明をはじめ木下恵介も原発大反対で、作品の中にも出ています。人間がコントロールできないものはいくつかあるけれど、その中の最も顕著なシンボルが原発だからです。どんなにクリーンであろうが、危険すぎます。
だから先日から代替エネルギーのことを考えてるんですけれど、神があるとすれば、神様が我々に生きる方法と、食物、農業、畜産業、漁業といろいろなものを与えてくれている。動物から見た場合、人間のおごりにより、いばりすぎている、いやらしい生き物になりつつある感じがするんです。今回の報道を見ていても、放射能に汚染された水を放出して、動物のことを考えている人ってほとんどいないです。魚が捕れるか捕れないかという話はするけど、魚は真っ先に被爆します。鳥も魚も牛も被爆しているけれど、それに対する行動というのは一切聞きませんでした。
──でもそこは人間が先ですよね。
それは解るんだけれど、犬や猫はあれだけ人間に付随して生きているのに、それに対する憐情がまったく感じられない。これは考えなくちゃいけないと僕は感じています。 そして被災者のことを考えると、どういうデザインで復興するかという話がまったくない。早急に、新しい街作りを考えなくてはいけない。海沿いの街は作らないで、高台に集中させるという案や、あるいは海沿いでも住めるような新しい案でもいい。仮説住宅ではじまってしまうと、同じことの繰り返しです。
──宮川さんから見て、1960年代から50年余り、日本は何がいちばん変わったと思われますか?
僕は50年イタリアにいますけれど、今もって日本人です。日本のパスポートで、ヨーロッパ人に帰化できるけれど、そのつもりもないし、日本が好きです。だけど、日本人は優秀であるとか、よそのヘルプがなくてもやれるんだみたいな、そういう奢りがある。だからこの地震と原発の事故はほんとうに試練だと思う。この試練をいかに乗り越えていくかで、また日本は新しい生き方が可能な時点に今来ていると思います。
そのためにいちばん必要なのはコミュニケーション。コミュニケーションがほんとうにへたな国民が日本です。外国に対してもそうだし、日本人同士もへた。日本語でしゃべっていて、話が半分くらいしか通じていない。大学にコミュニケーション学科を作って、人材を育成する。だってテレビを観ていて、保安院も東芝も政府も、外でコミュニケートできる、アピールできる人ってぜんぜんいないじゃないですか。明治維新はいま過大評価されているけれど、各分野からおかかえ外人を200人以上呼んだんです。それと同じことをやったっていいんですよ。外交がへたなら、外交専門の人にアドバイスしてもらえばいい。外務大臣が不在なんていう国は日本だけですよ。他の国は外務大臣を長い期間同じ人が務めます。「おいお前」とすぐ電話できる人と、やっとなって3カ月で辞めちゃうのとはぜんぜん違いますから。
──宮川さんはコミュニケーションをどのように力にしてきたんですか?
やっぱりおつきあいなんです。お茶で十ぺん食事で一ぺんと言いますが、人間同士で仲良くなるには、お酒や食事をすることで仲良くなる。そういうのを大臣同士でやるとかね、東京電力は力のある会社だけれど、外国と関係がないでしょ。
コミュニケーションをするには、家庭の付き合いがなければだめなんですよ。10何年前、経団連のトップの旅がローマでありまして、そのときに東電の当時会長だった方が経団連の会長だった。奥様同伴でおいでになって、さて、東電は外にコンタクトがないから会う人が誰もいない。麻生さんのご婦人がG7のときにローマにおいでになったときも日本人同士での会食はあったけれど、イタリア人でインフォメーションをくださる人や、文化交流ができるような人たちと一緒に食事する機会がない。
──宮川さんが60年に友達とふたりでバイクで旅に出たのは、好奇心ですか?
おそらくベースになったのはそうでしょうね。僕はコミュニケーターだから。ちょっとおしゃべり過ぎるけれど、伝えたいことを一生懸命伝えますよ。それは今回特に感じましたね。
──確かにテレビを観ていて、東電の取締役が出てこないのはおかしいと思いました。
でも取締役はそういう役をするんじゃなくて、選んだコミュニケーターを使えばいいんですよ。もっと表情豊かな。表情で言いたいことが解る、という。聞かなくちゃ解らないというのはどうかと思いますよね。
──車のデザインでも宮川さんがデザインするわけじゃないですよね。でもビジョンは宮川さんのなかにある。
そうです。お客さんはそう考えるかもしれないけれど、僕は通訳だと思ったことは一度もない。ジウジアーロと一緒にいても、どこにリーチしたらいいのか目標を聞いて、目標を考えて、それに向かって最短でやるということが僕の仕事です。
(インタビュー:浅井隆 構成:駒井憲嗣)
宮川秀之 プロフィール
1937年 群馬県前橋生まれ。終戦直後、早稲田大学在学中に世界一周オートバイ旅行を計画。世界中をバイクで旅行中に訪れたイタリアのトリノ市のモーターショウでコンパニオンだったマリーザ夫人と運命的な出会いを果たし、永住を決意。1968年 カーデザイン界の鬼才ジウジアーロと共に「イタルデザイン社」を創設。
宮川秀之のプロデュースにより実現した、いすゞ117クーペを始めとするデザインbyジウジアーロの名車やニコンF3などイタリアン・デザインを多数、世に放つ。また、マリーザ夫人と「開かれた家族」プロジェクトを立ち上げ、インド、韓国、イタリアの孤児達を養子として家族に迎え入れ、アフリカの孤児達の里親にもなる。1983年 イタリアのトスカーナに共同農園「ブリケッラ」を設立。後、有機農法を実践した農園に日本の不登校やひきこもりの若者たちを受け入れて自立させるプログラムを開始。2004年 ブリケッラのワインが欧州有機ワインコンクールにて金賞を受賞。
2007年 長年の功労からイタリア大統領より外国人として最高栄誉である連帯の星勲章を受章。2008年 農園で住み込みで働いていた小川和也の映画『ピンク・スバル』にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加。故 本田宗一郎(ホンダ創立者)、豊田章一郎(トヨタ名誉会長)、鈴木修(スズキ会長)、大賀典雄(ソニー相談役)など、親交がある産業界の実力者をあげれば枚挙にいとまがない。また、映画界でも黒澤明や木下恵介と深い親交をもっていた。
▼『ピンク・スバル』予告編
映画『ピンク・スバル』
渋谷アップリンクにて公開中、他全国順次公開
製作:コンパクトフィルム(イタリア)、レボリューション(日本)
プロデューサー:宮川マリオ、田中啓介、宮川秀之、高鍋鉄兵 ほか
監督:小川和也
脚本:小川和也、アクラム・テラウィ、ジュリアーナ・メッティー二
撮影:柳田ひろお
スチル:m.s.park
音楽:松田泰典
挿入歌:雪村いづみ「ケ・セラ・セラ」
エンディング曲:谷村新司「昴」
2010年/イタリア・日本/アラビア語・ヘブライ語・英語・日本語/16mm/カラー/シネマスコープ/98分
原題:Pink SUBARU
後援:イスラエル大使館、駐日パレスチナ常駐総代表部
公式サイト