たまにレトロなバスやトラックを見かけるのも、ブエノスアイレスならでは
毎日がスピード戦争
子供の頃、心配性の北河内出身の父によく「ニホンノセンソ~ハ、コウツ~センソ~」と恐ろしく訛った北河内弁で毎日毎日スローガンのように吹き込まれて育った。「今の時代、日本には戦争で死ぬ人はおらんけど、交通事故で死ぬ人がなんぼおるか(つまり非常に多いから危険)」というのが父の自説であった。しかし、もしかするとこのスローガン自体は、誰か有名人の言葉のパクリだったかもしれぬ。いずれにしても自分の周りで、若くして命を落とした人の場合、その死因のほとんどが、交通事故というのも事実だ。
そして改めて我が身を振り返ると、これまでの人生の中で既に2回も自動車やバイクに轢かれた経験がある。いずれも日本国内であったが、幸いにして頭が少しばかりおかしなった程度で済んだ。2回とも、入院もたいしてしなくてよかったのも相当当たったときの“こけ方”がうまかったのだろう。しかし一方では父の洗脳を受けながら、よりによって2回も、そんなしなくてもいいような経験をしたということ自体が、まったく親の教えが生かされていないことの証明であって、まるで自慢にはならん話やわな。
そんな国内の交通事故ですら、恐れおののく心配性の父親の当然の大反対を押し切って、怖いもの知らずの私は世界で最も危険そうな国、ロシアへ渡航した。たしかに結果的に見てみると滞在していた期間中の事件だけでも数え上げるのが大変なほど、いろいろあった。しかも直接災いが降りかからなくても、モスクワの中に集中的にこの時期、爆破事件やテロのニュースが日々絶えることはなく、引越しした翌日に近所の地下道が、爆破されて数名死亡なんてこともあった。そんなところでも、たいして怪我もなく元気に暮らしていたのだから、まさに「悪運が強い」としかいいようがない。そんなこんなで、「悪運の強さ」だけで生きてきたような私であるが、それでも、ブエノスアイレスにきて、そんな命も吹っ飛びそうな強烈なスピードで、毎日揺さぶりをかけられることになろうとは、到着してみるまで、思ってもいなかった。
都市中心部の劇場通りは、いつも車があふれかえっている
自動車と人間と鳩の命を懸けた戦い
首都ブエノスアイレスでは毎日、自動車と人間と鳩が命懸けで戦っているといっても大袈裟でない。それくらい、地球の裏側にあるこの南米の大都会では、まさに毎日の交通事情そのものが、壮絶なバトルなのだ。東京、モスクワなど大都市の交通事情をそれなりに経験してきたつもりの私ですら、ブエノスアイレスでは、もうただただ大通りを渡りきるというだけで、最初、“命綱のない綱渡り”に近いくらいの感覚だった。
もう、あまりにも巨大な道路で、まず「何車線あるか」数える余裕すらない。が、とにかく一回の青信号の間に“渡りきる”ために、全速力で疾走するしかないくらいの幅なのだ!(ほんまにやってみた本人が、そう言うねんからまちがいない)大体、“小走り”で「なんとか一度で渡りきろう」なんて、そんな“覚悟の足りん”ことでは必ずや、やっと渡り切ろうとする直前のところでひっかかる。
しかし、うっかり赤信号ギリギリまで脇目もふらずに渡っていたら、今度はもっと危険。もう目と鼻の先まで容赦なく車が迫ってきている。なぜなら、信号が変わるやいなや(いや変わるのを待ち構えて)一斉に数車線の車が“突撃状態”なのだ!とにかく、猛烈なスピードで走る車の波の中で、途中のささやかな分離帯の小島に、ひとりで取り残された日には、もう金縛りのように立ち尽くすしかない。こんな毎日を過ごしていれば、歩くだけで運動神経と集中力が、間違いなく鍛えられていくにちがいない。
まあ、日本も昔は「神風タクシー」と呼ばれたくらいに命知らずの運転をしていた時代もあったようだし、中国奥地の新彊ウイグル自治区の砂漠地帯でも、北京ナンバーのおっちゃんたちの運転の荒さは凄くて、100キロ以上はメーターが動かんように細工されてたもんな。しかしながら、現代ポルテーニョ(ブエノスアイレス人)の運転の荒さもまた中途半端なもんとちゃうわ。
どことなくレトロな建物と、現代的な交通渋滞の日常風景
ポルテーニョが運転する車の、そのスピードたるや、道幅の狭い裏通りですらビュンビュンと飛ばしており、ちゃんと地面にタイヤをすって走ってないんちゃうかと思うほど。アクセルを踏みこんだ瞬間、ちょっと宙に浮いてるんちゃうかと錯覚するような、まさに未知の速度で加速している。一体全体みんなどうして、ああいう運転をしているのか?あの速度はなぜ必要なのか、もう感覚が完全にちがってる。まず、のんびり走る車なんて存在すらできそうにない。
さらにその「せっかちさ」は、ほとんど関西人を完全に凌ぐ。むしろ闘争本能ムキダシ。有無を言わせぬ猛烈な勢いで、信号が青に変わる直前から、反対の信号の色の変わるのを見てアクセルを踏み、思いっきりエンジンを吹かせて突っ込んでくる。もう、これは単なる交通ルールの違いとかなんとかいう問題ではない。ブエノスアイレスという都市のリズム自体が“超高速”なのだろう。まるで、私の愛するムッソリーニ時代の「イタリア未来派」のような世界だ!(やっぱり、イタリア系移民の多さがそうさせるのか?)
この都会のスピードについていけない奴は人間だろうと、動物だろうと、生きる道はない!というくらい問答無用の洗礼だ。といっても、現地の人たちは毎日のことなのでまるで驚く様子もなく、まったく平然とこういう車をかいくぐって渡っていく。それでも、ブエノスアイレス一番の大通りを渡るときは一種の団結心で共に渡らなければという空気はあるので、あまり自信を持って大胆な行動を取ると、いくら現地人でも命取りになりかねない。
アルゼンチンとスペインのタクシーの色はなぜか同じ
じっと見ているとなんとなく、渡り方に間合いというかテンポみたいなもんが存在している感じ。周囲を見ながら微妙なテンポを「学習」しなければ、いつまで経っても「一人前のポルテーニョ」になれない感じなのだ。まあ3ヶ月いれば、神経だけは図太い私の場合、最終的にはだいぶ慣れてきてしまって、多少厚かましく現地人化していき、テンポを心得て周囲と息を合わせて、それなりに渡ることもできるようになっていった。しかし、生死をかけた日々の戦いは人間ばかりのものではなかった。うちの近所でのんびり暮らしているように見えていたあのブエノスアイレスの優雅な鳩たちですら、中心部の石畳の上でかなり“頻繁に”車社会の犠牲になっていたのだ。その壮絶な鳩が絶命した後の、最後の勇姿を見た日には、さすがの関西人も「明日は我が身か!」と思って戦慄を感じた。
つまり、鳩がタイヤで轢き殺されて犠牲になった後のその御姿たるや、ほとんどそのまんま「ぺっちゃんこ」状態。まるで、「鳩サブレ」ならぬ、「鳩せんべい」のようで、血も出ていない様子。見事に平たくなっていたのである。まるで、薄紙の剥製みたいになって死んでいる。こればかりは、我が人生で初めて見た最も「衝撃的な物体」だった。もう、かわいそうとかいうのを通り過ぎて、自分自身にも身の危険や恐怖を感じるレベル。一体この鳩は、どれくらいのスピードで轢かれたのか。ほとんど想像するのも怖かった。しかし、それくらいのスピードと戦わなければ、鳩ですら、この街で生き残れないということなのかもしれぬ。
関西人が命懸けで渡った大通りも、現地人の歩き方には余裕が感じられる
といっても、ブエノスアイレスは広大なので、このような交通の激しい中心部を離れていけば、落ち着いた地域もあるわけで、すべてがこういう状態ではない。広大な芝生の公園もあれば、カルロス・タイスという人が世界中の草花を育てて作ったという見事な楽園のような植物園など、広々としてくつろげる場所もたくさんあるのだ。だから、特に交通量の多い中心部を除けば、一概にブエノスアイレス全域が交通戦争というわけではないので、ご安心を。ただ、ああいう世界で「生き残る術」を身につけたら多分、たいがいの危ない世界で「生き残る」自信がついてくる。今思えば、あんまりにもダラダラと暮らしていた日本から、私の中で眠っていた本能的に生死を賭ける“生命力”を磨いてくれたのが、このブエノスアイレスの「スピード生活」だったような気もする。
ブエノスアイレスの地下鉄通路内で混雑ぶり
物乞いして、何処が悪い
アルゼンチンという国に限らず、世界のいろいろな国でいまだに多くの物乞いをする人たちを見かけてきた。もちろん、物乞いしている人をあんまりしげしげ眺めるなんて、おそらく失礼なことにちがいない。
とはいえ、職業に貴賎はないという言葉もあるくらいだから、同じ人間として、物乞いする人たちが必ずしも劣っているとは思わないし、なぜそういう風に生きているのか、事情を知りたくなる。ただ、猛然とこちらに向かってこられると、つい少し目を逸らしたくなる気持ちとともに、強烈にその社会の現実の一点にいる物乞いという種族を、同じ人間として観察してみたくなる。
今のモスクワは地下鉄も規制が厳しくなったので、前みたいに悠長に物乞いなんてやっているかどうかわからない。しかし、以前は「物乞い作法」が非常にしっかりしていた。立派な口上を申し述べて自分の境遇を語った後、「もし善意ある人がおられて、懐に余裕があれば」という決まり文句を最後に必ずつけることになっていた。 しかもたいていの場合、身体障害者の人だとか、自分の赤ん坊が病気だとか、遠方から来て鉄道駅で全財産を盗まれただとか、物乞いするにあたっての、なんらかの「事情」が説明されるため、それが嘘か本当かはともかくとして、同情した人、あるいは、納得した人が、できる範囲のお金を恵むシステムが出来上がっていた。
ところが、このアルゼンチンの首都では、物乞いの事情はだいぶちがっていたのだ。同じように場所は地下鉄なのだが、物乞いする年齢層も低い上に行儀作法がまるでなく、「物乞い」というよりは「押し売り」に近い状況であった。
夜になっても、家族連れや子供たちで懸命にダンボールを集めていた
物乞いというより押し売りの子供たちはいきなり車両に入ってきて小さなカードなどを、車内にいる人々に配り始める。そして、配り終わると再び戻ってきて、商品対価を要求するわけだが、もうその態度たるや堂々としたというよりは、ふてぶてしいことこの上ないのだ。まるで、不機嫌さをばら撒きにきたみたいに彼らが現れると、どうも車内の空気が気まずさに包まれ、なんか車内に嫌な予感が充満する。
そんなことに遭遇して最初は当惑した。いきなり膝の上に安っぽいカードが載せられてしまって、どうするねん?という不安に襲われた。それで、しゃあないのでまわりの人を観察していた。すると、ほとんどの人が平然と無視して配られたら配られたままにそのカードを置いている。するとしばらくして、ふてくされたような少女によって、カードは回収される。そして、また何事もなかったように去っていくのだ。 この物乞いの仕方見てると、なんかなんともいえん感じがしたわ。こういう風にしてでも生き抜いていくその逞しさは凄いと思うが、すっかり慣れてしまってお互いに何の関心も示さない。本当にそこに現れて去ったことすら、無視されているような冷ややかな人間関係がなんか哀しかった。特にアルゼンチンの場合、明らかに物乞いする人種が絶対有色人種で、お金をせびられる方が白人という図式が、ほぼ完全に出来上がっていてよりそういう人種間の格差が余計に心に重たいものを残していった。やっぱり、征服された民族という烙印を物乞いする人たちに見たときは、なんともいえぬ複雑な気分に襲われるわな。
地下鉄の駅前で休息するダンボール収集の人々(カルトネーロたち)
しかし、そのうちにもっと本格的な物乞いに会う機会があった。このときばかりは、さすがに私もショックを受けた。というのは、その少女は多分10代の前半だろうか。背中には小さな赤ん坊を背負っていて、もう着ている服などはこれまで見たことのないほどボロボロ。しかも素足で歩いており、身長も120センチ前後かもしれない。 とにかく小柄だ。でも、どうも赤子はこの女の子自身が産んだような雰囲気があり、それが私を慄然とさせていた。一体、どういう事情があったのか、考えるだけで恐ろしくもあった。彼女は配るものすらないようで、手当たり次第に「金をくれ」というジェスチャーをしながら、車両から車両に渡り歩いていき、終点でプラットホームに降りていった。 まさに、都会の地下鉄にジャングルから出てきた狼に育てられた少女が歩いているような光景。むしろ、動物に育てられた方がまともに育ったかもしれない。本能的にその目は、一度も普通の人間的生活を経験していないような空虚な気配があった。
なんというか、同じ人間なのにこんな境遇で生きなければいけない過酷さを見て、本当にアルゼンチンの底辺というものの、恐るべき現実を見てしまった気がした。まさに、見てはいけないもののように思えた。同時に胸が刺されたような痛みを感じた。 どんな事情があったにせよ、あれほどに垢まみれでボロギレを着たような、哀れな状態になるまでほっておかれ、さらにあれだけ多くの人が行き来する場所に毎日いながら、ほぼ完全に無視されてしまうなんて、一層恐ろしいことに思えた。これがブエノスアイレスで見た一番哀しい光景だった。 それから、アルゼンチンの首都を離れて国内を旅していたとき、イグアスの滝に近い小さな街でもやはり、とても幼い物乞いの少女を見つけた。イスラエル人の友人と食事していたときのことだ。その子もボロボロの格好で慣れた様子で辺りをうろうろし、レストランのオープンテラスに座っている外国人の客を狙って、物乞いしているようだった。
悲しいことに、ダンボールを回収しても価格が安いので大量に集めなければならない
背中には妹のような感じの2歳前後の赤ん坊を背負っていた。しかもこの赤ん坊はお尻がむき出しで素っ裸に近い。もういかにも貧しそうであった。私はなんとなく、いかにも観光客目当てに来たのを見てちょっとお金をあげるのをためらったのだが、友達のほうは子供がかわいかったので小銭を渡してやった。すると彼女はそれを貰って、ありがとうということもなく、そそくさとその場を立ち去った。 それから数分もしただろうか。彼女は再び妹を背負って現れた。背中の赤子は先程身に着けていなかったはずの、パンパースのような紙おむつをしてもらっており、いかにも「今さっきのお金が入ったから紙おむつができるようになりました」という感じなので、びっくりした。
そして、もう一度われわれのところに来て、悪びれもせずにまた「金をくれ」という動作をしたがさすがに今回は友達ももうお金は出さなかった。その代わり、赤ん坊がかわいいと言って微笑みかけたが特にそれに反応するようでもなく、お金が貰えないとわかると、すたすたと女の子は立ち去った。多分、親に物乞いするように言われて来ているのだろう。 たしかに、さまざまな経済事情の中で彼らに「物乞いして何処が悪い」と言われれば、言い返す言葉がない。そういう生活を続けていって、どんな風に成長するのかと思うとなんともいえない無念な気持ちになった。せめて、恥ずかしくない程度の「物乞い作法」だけでも、教えてやる人がおらへんのやろうか。
アルゼンチンタンゴを踊る
アルゼンチンのことを経済がボロボロになって疲弊しているのを揶揄して、経済が悪くなった国などを指して、「アルゼンチンタンゴを踊る」という表現をしているのを読んだことがある。でも、アルゼンチンの現実を知ると、たとえ真実とはいえかなり侮蔑的な響きに気分が悪くなるもの事実だ。たしかに、アルゼンチン経済危機以降、特に都市部では、一般人の中で脱落組がかなり出ており、その多くがダンボールを集めることで生計を立てるようになった。彼らのことを、アルゼンチンでは「カルトネーロ」と呼ぶ。
それから随分経ってもやはり、その底辺から抜け出せないでこれに近い職業を続けるほかない人々をたくさん見かけた。でも、彼らは「物乞い」まで落ちていない。辛うじてかもしれないが、それでも彼らの「プライド」は時々見ていて感じた。
大都会の大通り。炎天下の中を見事な肉体美の男たちが上半身裸で堂々とリヤカーを引いて、ダンボールを集めていく。本当に肉体を酷使する仕事だし、かっこいい仕事ではないはずだ。それでも一瞬見とれるほどに、彼らの動きは敏捷で颯爽としていた。その姿は堂々としており、その辺の男にない底辺の力強さがあった。今という現実の中で、卑屈にならずに生きていた。
悲しいことだが、路上で眠る人々をよく見かけた
カルトネーロたちは、自分たちの力で生きていく意欲は失っていないし、他人にたかって生きるような根性に成り下がってはいない。明るく頭を上げて太陽に向かって、まっすぐに生きていた。そういう態度を見ていると、全然惨めさは感じられなかった。立派なもんだと思った。どんなことでも、心の持ち方ひとつで前向きになれるんちゃうかな。しかも、まるで暗い表情がないところがええなあと思う。もちろん、大変な生活にちがいないけど。めそめそしてないところが、すごくええなあ。
どんな国でも事情があって、社会生活で転落する場合やってあるかもしれん。たとえ物乞いになったとしても、それを理由に開き直って、世間様に不愉快さをばら撒いて生きるようになってしもたら、それはもうおしまいやわ。ブエノスアイレスで出会った多くのカルトネーロのように、堂々と前を向いて、背筋を伸ばして逞しく生きる人はうつくしい。厳しい現実であることにはちがいないけれど、誰かに頼らず何か自分自身で、道を切り開いて生きる。そんなカルトネーロたちに幸運あれと祈りたい。
■東知世子 プロフィール
神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。
その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。