カフェできびきびと働くMOZZO(ウェイター)
ロシア人監督セルゲイ・ボドロフによる、浅野忠信主演のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に通訳として参加した東知世子さんが南米の旅をリポート!大学時代にロシアの演劇・映画からロシア文化にはまりロシア語を学んだ東さんは、そこから様々な国籍の人々と知り合う。そんな中バスク人の友人との交流から興味を持ち出した南米の都市、ブエノスアイレス。その魅惑的な都市に3ヶ月間滞在した中で出会った人々、食べ物、風景について綴った「アルゼンチンへの片思い」を、全9回にわたって連載。
今回のブエノスアイレスの手記はこれまで訪れた国、出会った人々や物事による流れの中で辿りつた南米大陸の大都会で、3ヶ月間に感じたことをつらつら思い出したものです。
東知世子
眠りを知らぬブエノスアイレスの夜
ブエノスアイレスに来るまで、私はもしかすると本物の夜を知らずにいたのかもしれない。そして、ここに来ることがなければ、永遠に知らずにいられたのかもしれない。誰もが一度この不夜城に来てしまったら最後「眠りを知らぬ夜」に誘惑されるだろう。
なんといっても、怖いもの知らずの私はたいした情報もなしに、ただ漠然とこの街に憧れていた。でも、まさか自分でも地球の裏側にあるこの大都会にひとりで来てしまうとは思っていなかった。いざ空港に着いてしまって、タクシーに乗って下手なスペイン語で「いい天気ですね」と下手なスペイン語で話しかけたら、一言「今日は特別だよ(Especialmente)」と答えられた。たった一言だけど、なんというのか、ものすごく心に響く言葉だった。これがブエノスアイレスで交わした会話のまず第一歩だった。
中心部の巨大モニュメント、オベリスコ
たしかに、南米は初めてだったために予備知識も少なく、しかも学校の紹介でたどり着いたアパートの最初の家主が運悪く(?)ベネズエラ人だったこともあって、いろいろと問題はあった。でも、特にカルチャーショックだったのは、知れば知るほど現地の人たちの時間感覚があまりにも「夜型」ということだった。到着して数日は、あまりの昼間の暑さと酷い時差ぼけで昼夜逆転して寝てばかりいたので、あまりその大きな違いに気付かなかった。ところが、一部の人どころか多数の人が「夜の方が活動的」なのがブエノスアイレス。大人が夜12時頃に寝るなんて、そんな間抜けな話ってあるかよ?という感じなのだ。
さらに、娯楽の宝庫でレストランも多種多様の選択肢があるのだから、当然、夜は舞台などを見てから食事をして、ゆっくり飲んで楽しむ。ポルテーニョス(ブエノスアイレスっ子)が楽しむ時間帯は、普通に午後10時以降に待ち合わせて、午前様なんて当たり前。
夜の灯りに照らし出される石畳の美しさ
ただでさえ、治安が良いのか悪いのか分からない国で待ち合わせがそんな時間だから心配になって尋ねると、「チヨコ、午後10時なんて子供の時間だよ!」ケラケラ笑いながら、小柄なロレーナに言われた。そう、私は自分が思いっきり「お子様時間」を生きてきたことに衝撃を受ける。
とはいっても、現地の人と自分のような外国人がまったく同じ時間帯に歩いていて大丈夫とはとても思えないので、結局最後まで完全に「大人時間」へ移行することはなかった。
でもなんとなく夜のブエノスアイレスの光景を眺めていると、本物の大人の世界が垣間見えるようだった。壮大なスケールの道路、溢れかえる車、光の洪水の中にそびえ立つ巨大なモニュメント。ヨーロッパ的な建築物や市街計画、なのに、すべてがアルゼンチン風、いやブエノスアイレスの独特な美学に満ちている。
しかし、そんな美しい栄光の陰で、多くの人が貧民状態であるのも事実だ。ゴミ漁りする人の姿を毎日見かける一方で、最高級のファッションに身を包んだ恰幅のいい、イタリアマフィアみたいなビジネスマンが何食わぬ顔をして、銀行街を闊歩する。
中にはタンゴを見るだけでなく自分たちで踊って楽しむ人たちも
この街に住む人の称号“ポルテーニョ”
そして、そんな中に一見何の関わりもない私がいて、平気で歩いている。さらに慣れてきたら、いい気なもので、あんなに最初危ない危ないと思っていた夜の流れの中をなんとか独り泳いでいるのだ。こんな日本とは地球の反対側の大都会の渦の中に誰に呼ばれもしないのにやって来て、意外と溺れもしないですいすい泳いで自分の行きたいところに行きつくことができるなんて、なんだか我ながら信じられない。
さすがに南米のパリといわれるだけあって、いままで見てきた大都会と異なる喧騒だ。ガルシアマルケスを何冊か読んで、南米の空気は感じてきたつもりだったが、やっぱり、ここはまったくの別世界だ。
広々とした公園敷地内の現代アートの花も夜に咲く
世界の他の大都市もそれなりに見てきたつもりだけど、なんだか、この街を創造した目的自体がエネルギッシュで大胆で、そして圧倒的に西欧文化への対抗していた全盛期の遺産が街のいたるところにひしめいているし、そういう時代を知っている世代はそれだけに誇り高い。
もちろんヨーロッパの人たちから見ると、明らかに自分たちの植民地だった国に過ぎず、移民社会だからヨーロッパのはぐれ者たちの寄せ集めみたいなもんか。でも、ブエノスアイレスの人たちってのは、そういうことは認めない。彼らが自分たちの街にどれほど誇りを持っていることか。そして、ポルテーニョという、この街に住む人の称号はまるで勲章のように彼らの精神の支柱として輝く。そしてヨーロッパに対しては、負けず嫌いで、強情で、やたら貧しくなってもプライドだけは高い連中ってとこなんだろう。
有名な老舗カフェ・トルトーニのタンゴショー
でも、それだけじゃない魅力がやっぱりこのブエノスアイレスにはある。だから、私はここへ来た。ピアソラの強烈な男らしいタンゴみたいに、大胆不敵な気配。絶対この街は女性的じゃない、男性的。それも憎たらしいくらいに。逆らうことのできない、時を止めてしまいそうな力強さで迫ってくる街。
この瞬間、ただここにいるという、それだけのことに酔いしれて感動してしまって、でも、それも無理はないと思わせる街。そんなブエノスアイレスの夜は深く長く、情熱的な息遣いをしながら今夜も人々を惑わせる。この恐ろしく誰もを惹きつける街と、世界中からここに流れ着いた人々。たった数ヶ月で、私自身がこんなに熱にうかされたようになるとは。真性のデング熱だろうか? いやおそらく、不死のアルゼンチン病って奴だ。
一般的な庶民向けレストランの賑わい時間も遅め
魅力あふれるMOZZOたちの誘惑
どれだけのレストランがこの街にあるか、正確にわからない。もちろん、おそらく数えれば特定できる事なんだけど、そう思えてくるほどに、ブエノスアイレスの食の道は深い。
まず、イタリア系移民やスペイン系移民の子孫たちの経営する祖先のお国料理のレストラン。ドイツ料理、フランス料理、インド料理、その他諸々、日本料理も含めた各国料理があり、アルゼンチンのお国自慢のパリージャという焼肉、そしてその中でも、私が特に気に入っていたのは魚介の使い方が大胆で美味なバスク料理。
まあ、関西出身なもので、特別に美食への関心が強いもので、ブエノスアイレスのレストランは、三ヶ月もいれば、かなり満喫したといっていい。でも、とりわけその感動を引き立ててくれたのは、常にそこで笑顔で出迎えてくれたMOZZO(モッソ)の魅力の御蔭だろう。
本土スペインでは、ウェイターのことを「カマレーロ」と言うのだが、こちらアルゼンチンでは、同じ職業の人を「モッソ」と呼ぶ。最初慣れるまでは、私もついつい前者の呼び方をしていたのだが、やっぱり、通じても相手としてはピンとこないらしい。そんなわけで、自然にブエノスアイレス流の言い方へと移行していった。そのうちに、現地に溶け込むにつれて「モッソ」たちとの交流ほど生活を豊かにしてくれるものはない!と断言できるほど、本当に魅力的なモッソたちとの出会いを重ねてきた。
家族経営のような小規模なカフェバーが多い
地元で人気があって美味しくて、いつも客が途絶えないような飲食店には必ずといっていいほど魅力的なモッソの存在があった。それは中年男性のこともあったし、若い女性のこともあった。年齢はまちまちなのに、なぜか職業意識の高さというか、本職としてのプライドは絶対的なもので、いつも感心させられた。大体、日本人だから目立つというのもあろうけど、たいていの店では二度目に行ったら、たいていサービスで食前か食後の一杯をつけてくれる。
アペルティフ(食前の甘い酒)かシャンパン、ときには希望すれば両方。それも非常にさり気ないやり方で尋ねてくれるのだが、もうこの時点で無言のうちに、「あんたはもううちの常連だよ」という空気を匂わせてくるところが心憎い。押し付けではないけど、“飲める人間”にとってこんなうれしいサービスを断るわけにもいかず、ついつい受けすぎて食前にアペルティフ、食事中はワイン、食後にシャンパンなんて機嫌よく昼間からやってたら、すっかり酔っ払ったこともあった。それにしてもワインの栓の抜き方ひとつですら、モッソが目の前で自分のためだけに、あんまり格好よくやってくれるものだから、毎回一杯やるたびに、もう心はすっかり映画の中のヒロイン気分だった。
カフェやレストランのインテリアのセンスもどことなくヨーロッパ的
客と、それを接客するモッソのドラマ
さらに、本当にいいモッソというのは一人で入った客であっても、人を逸らさないような会話術がある。別に余計な話をするわけではないが、ちょうどいいタイミングでワインを注ぎ、きびきびと歩いてきては必要なものを必要なタイミングで提供し、ちょっとした言葉をかけて料理の味が気に入ったかと尋ねたり、とにかく間合いがいいのだ。
私の場合、女一人で平気でどんなレストランでも入っていたが、一度たりとも居心地の悪い思いをしたことがなかった。それくらい、モッソたちは客に対する心遣いが行き届いている。そして、ある行きつけとなったレストランのモッソなどはかなり広い道路を渡る途中、道端で偶然すれ違ったときも、いきなり立ち止まって、まるで旧友に語るようにこう言うのだ。「やあ、最近うちの店に来てないじゃないか。どうしたんだい? 今度はいつ来てくれるの?」まあ、この気さくさには正直驚いた。とはいっても、同時にうれしいことでもあった。私のことを現地人扱いしてくれて、しかも彼にとっては既に自分の顧客であり常連なのだ。だからこそ、私も同じ店にもう一度行くのは、単に料理が美味しかったからではなくて、あんな風に自分を待ってくれているモッソがいるからなのだ。
単なる職業上の接客のうまさを越えて、お店の格など気にせずに済むように、ちゃんと一段敷居を下げてくれるモッソが存在しているからこそ、私のような者でも、ブエノスアイレスという大都会のどんな店にでも入れたし、そこで楽しく食事をすることができたのだ。本当に彼らの世話の焼き方は、さり気ないがやさしかった。そして人間的に、こういうのが大人の距離感なのだなあという見本を客とモッソのやり取りの中から、たくさん学ばせてもらった。
毎晩、レストランのテーブルとそこに座る客と、それを接客するモッソの間にもドラマがあって、映画の世界のようにきらびやかでありながら、同時に毎日は地味な作業の積み上げなのだ。成熟した文化圏だけあり、客も心得た人が多かったけれど、むしろ、そういう目の肥えた客を満足させなければならないモッソという職業人の背負う責任は重いにちがいない。だからこそ、細心の注意を払って客人の心の機微を読み取って、心地よい雰囲気を作り上げる。そういう、人間の扱いを心得た人種の人たちをモッソというのだ。
それぞれ雰囲気があるが、どことなくレトロな感じがする店内
ただ、見ているとモッソにも多少の好き嫌いがあるようで、日本のように誰にでもまったく同じマニュアルのまんまの接客という感じではなかった。むしろ、相手によって臨機応変に対応していき、必ず誰にでも同じにはしない。そういうところにむしろ好感を持った。なんというか、モッソの価値観とか好みとか基準がその店を左右する。なんだか、雇われているなんていうような「ちみちみした根性」の欠片も感じられない。
だからどんなモッソでも、なかなか堂々としたものだった。それがまた、彼らがすてきに見える理由だろう。ひとりひとりのモッソの個性が、ブエノスアイレスの食文化を作り上げている、そう言っても大袈裟ではない気がした。たったしばらく、そこで暮らしていた私ですら、一部の特にお世話になったモッソなんて、既に身内みたいな気分がするくらいだ。
こういう微妙な付き合いの匙加減というのは、本当に人と人の間の阿吽の呼吸のようなものなので、とても難しいと思うのだが、本物のモッソたちは、それをさらっとやってみせ、その上、時折、お世辞抜きで最高の笑顔を見せてくれる。本当に今、ひとりひとりのブエノスアイレスのモッソたちの笑顔を思い浮かべるだけで、あのときの幸福感を反芻できる。
本物の食文化の豊かさは、食材でもそれに支払う対価でもなくて、それを提供してくれる魅力的なひとたちとの交流なんだということを、アルゼンチンのモッソたちが、私に教えてくれた気がする。
■東知世子 プロフィール
神戸生まれ。ロシア語の通訳・翻訳を最近の職にしているが、実はロシアでは演劇学の学士でテアトロベード(演劇批評家)と呼ばれている。学生時代に「チベット仏教」に関心を持ち、反抗期にはマヤコフスキーに革命的反骨精神を叩き込まれ、イタリア未来派のマリネッティの描いた機械の織り成す輝ける未来に憧れて、京都の仏教系大学に進学。大学在学中にレンフィルム祭で、蓮見重彦のロシア語通訳とロシア人映画監督が舞台から客席に喧嘩を売る姿に深い感銘を受ける。
その後、神戸南京町より海側の小さな事務所で、Vladivostok(「東を侵略せよ!」という露語の地名)から来るロシア人たちを迎えうっているうちに、あまりにも面白い人たちが多くて露語を始めすっかりツボにはまる。2年後モスクワへ留学。ここですっかり第2の故郷と慣れ親しんで、毎晩劇場に通いつめるうちに、ゴーゴリの「死せる魂」を上演していたフォメンコ工房と運命的な出会いを果たし、GITIS(ロシア国立演劇大学)の大学院入りを決める。帰国後、アップリンクでの募集を見てロシア語通訳に応募。憧れのセルゲイ・ボドロフ監督のアカデミー賞ノミネート映画『モンゴル』に参加し、さまざまな国籍の人々との交流を深める。その後バスク人の友人に会うためサンセバスチャンを訪問し、バスクと日本の強い関係を確信。いろいろと調べるうちに南米・ブエノスアイレスにたどり着き、なにがなんでも南米に行くことを決意。