左)新装版『逆光の頃』(太田出版)、右)DVD『タナカカツキのタナカタナ夫』(アップリンク)付属の小冊子表紙より
タナカカツキ
1966年10月7日大阪府東大阪市生まれ。京都精華大学美術学部ビジュアルデザイン科卒業。85年、小学館「ビッグコミックスピリッツ」にて、『ミート・アゲイン』が、同誌の 86年1月1日号に掲載されデビュー。当時のペンネームは原真己。88年にペンネームをタナカカツキに改め、投稿した『逆光の頃』が、講談社「コミックモーニング」(現在の「モーニング」)にて「コミックオープン ちばてつや賞一般部門準大賞」を受賞。同作は「コミックモーニング」および増刊号に連作として発表された。マンガ家の傍ら放送作家、演劇、アート、映像の分野へと活躍の場を広げ、91年、パルコのフリーペーパー「GOMES」にて、天久聖一と『バカドリル』を連載し、ギャグマンガとしての地位を確立。代表作は『ブッチュくん』、『オッス!トン子ちゃん』など。09年には『バカドリル』10年ぶりの新刊『新しいバカドリル』(ポプラ社)、新装版『逆光の頃』(太田出版)が発売され話題に。「サウナ道」を追求するサウニストとしても知られている。・タナカカツキ 公式サイト
タナカカツキについて語ろうとすることは「無謀」という言葉が浮かぶ。マンガ批評からこれほど縁遠いマンガ家も珍しい。そもそも、タナカカツキはマンガ家なのかという疑問さえ沸いてくる。それほど彼の活動は多岐に渡り、すべてを認識するのは不可能ではないかと思えるほどの仕事ぶりなのである。
「笑って!いいとも」の放送作家だったという異色の略歴を持ち、「gbm」というオンラインTシャツショップ、「バカCG」と名づけた映像作品、まだポッドキャストという言葉がない頃にインターネットラジオ局「デジオ」を開局するなど、次々と思いつきを現実にしてきたタナカカツキ。「ひらめき」と「でっちあげ力」に長けた彼のことを紹介するなら「マルチクリエーター」というかつて大友克洋が使った肩書きが浮かぶが、あくまでもタナカカツキはマンガ家なのであり、マンガ家であることにこだわりを持っている。当連載では彼の言う「マンガ家」とは何者なのかを探っていきたい。
マンガは「描く」のではなく、「作る」。こだわりの小学時代
幼少期よりマンガ家を目指していたタナカカツキ。誰しもがそうしたように彼もまた、物心がついた頃より、マンガを描いていた。しかし、タナカカツキは「普通」ではなかった。その「普通」ではなさについて、編集者であり、多くのタナカカツキの作品をプロデュースし、解説してきた伊藤ガビンが的確に指摘しているので引用しよう。
(タナカカツキが)なにより作品の「完成」を第一義に考えていたからであり、「完成」によってこれが作品として「残る」ことを期待していたのではないか? もっと大胆に言ってしまえば、こうした「作品」たちは、あらかじめ今日、たった今こうして「発掘」され語られるために描かれたのではないか、とさえ思う。この作品は、どこか、おかしい。
<DVD『タナカカツキのタナカタナ夫』(アップリンク)伊藤ガビンの解説より>
これは小学校3年生のときに作った『ミイラマン』という12ページのマンガについて書かれたもの。このマンガになぜ、伊藤が驚いたのか。鉛筆で画用紙に描いたマンガをホッチキスで「中綴じ」してあったからだ。しかも、驚くべきことに、本の形状に紙が束ねたあとで「『まだ描かれていない』ページを埋めていったものではないのか」と指摘している。
その指摘を裏付けるかのように78年、小学六年生の時に描いたという『AGE』という作品がある。現在、BCCKSというWeb上で「本のようなもの」を作るサービスで公開されているこの作品をまず、ご覧いただきたい。
小学校6年生から中学1年になるまで1ヶ月で描き上げたという田中克己『AGE』。描いたのは春休みか?ヒゲオヤジっぽいキャラもいるね
★『AGE』の中身はコチラから
http://bccks.jp/#B67,P171751
『AGE』は印刷される前の本、束見本に直接、描いたものでマンガ単行本を模している。マンガはもちろん、タイトルロゴ、あおりはもちろん、幼馴染であったマンガ家のロビン西に解説を頼んでいる。「普通」の子どもはここまでしない。しかも、このボリューム全192ページ。
要するにタナカカツキが考えていたマンガの「完成」とは、売り物に近いかたちに「デザイン」されたものだった。マンガを「描く」という行為よりもマンガの単行本を「作る」という「ごっこ遊び」が彼の本質なのである。
「恐ろしい子!」と人々を震え上がらせる真夏のホラーは続く。このマンガの内容が、78年の子どもの興味から離れているというのだ。伊藤が既に指摘しているので繰り返しになるが、重要なことなので何度も書いておこう。『AGE』の作風が初期の手塚治虫作品『宝島』や『ロストワールド』を模しているという点である。78年というと、すでに初期の手塚マンガは古臭く、手塚でさえも劇画への傾倒から『ブラック・ジャック』『ブッダ』『火の鳥』『MW』などを描いていた時期である。77年には江口寿史の『すすめ!! パイレーツ』、80年には鳥山明の『Dr.スランプ』が集英社「週刊少年ジャンプ」にて連載されており、「マンガちっく」な絵柄から「スタイリッシュな線」を有するマンガに人気が集まりつつあった頃だ。「新しいものが好きで飽きやすい」のが「子どもらしさ」とするならば、タナカカツキは少し、ズレている。その謎について、伊藤はあれこれ推理しているので興味を持った人は、アップリンクより発売されているDVD『タナカカツキのタナカタナ夫』で、ご確認あれ!と、いきなりCMをはさんでみた。
歴史に参加すること、マンガ家になるということはそういうことなのだ。マンガを描くだけではマンガ家にはなれないのだと思いこんでしまったのではないだろうか。
<DVD『タナカカツキのタナカタナ夫』(アップリンク)伊藤ガビンの解説より>
18歳で商業誌でデビュー。そして、叙情派マンガ家へ
高校生になったタナカカツキは、就職活動の一環としてマンガ雑誌へ投稿をはじめる。まず、82年16歳の時に小学館「週刊少年サンデー」へ投稿したらしい。「らしい」というのは、ペンネームが違うらしく確認できなかったからだ(『タナカタナ夫』の解説にもタイトル不明となっている)。ただ、分かっているのは初投稿作ではデビューには至らなかったという事実のみ。
80年には、小学館「週刊少年サンデー」、講談社「週刊少年マガジン」、集英社「週刊少年ジャンプ」、秋田書店「週刊少年チャンピオン」、少年画報社「週刊少年キング」の少年週刊マンガのトップ5誌は、発行部数の総計が1000万部を突破。いわば「少年マンガ黄金期」真っ只中。「週間少年サンデー」では、あだち充『タッチ』、高橋留美子『うる星やつら』など、大ヒット作が連載中だった。投稿者には島本和彦や上條淳士の名前もあり、マンガ家になりたい若者が目指す激戦地であり、デビューは容易ではなかったと思われる。
その後、タナカカツキは85年に小学館「ビッグコミックスピリッツ」に投稿した『ミート・アゲイン』が佳作に入選。同誌の86年1月1日号に掲載されデビューした。当時のペンネームは原真己。内容は借金取りに追われている少年が空から降ってきた少女と出会うというまさに王道のラブコメディ。ストーリーのテンポやギャグの運び方はすでにカツキ流であり、『バカドリル』や『オッス!トン子ちゃん』を感じさせる一方で、『逆光の頃』に通じるシーンもある。しかも、何故か冒頭の4ページは2色で他の入賞者にはない、ポテンシャルの高さを感じる。
ぶち抜きの大迫力パンチラシーン。『ミート・アゲイン』より
審査員の石森章太郎は「ストーリーも絵も、パッパラパーと軽く飛びすぎ」と辛らつに評しているが、小池一夫、さいとう・たかを、白土三平らは「新しさを感じる」「荒々しいが魅力がある」「キャラクターがいい」とこぞって、好評価を下している。講評だけ読む他の作品に比べて、審査員の評価はまずまずのようだった。もともと、石森章太郎は基本的に新しい作品に対して、保守的であり、厳しい評価を与える傾向があったので、むしろ評価が低いほうが作品が今までにない新しさがあるという証でもあった。
こんな左のコマのような叙情的なシーン、右のコマのような感傷的なモノローグも。『ミート・アゲイン』より
【はみだしコラム1】
「週刊少年サンデー」のお兄さん的存在だった「ビッグコミックスピリッツ」「週刊少年サンデー」のお兄さん的存在だった「ビッグコミックスピリッツ」。『うる星やつら』で、大人気だった高橋留美子が大人向けのマンガを描くということで話題になった『めぞん一刻』をはじめ、雁屋哲原作、花咲アキラ作画による『美味しんぼ』、江口寿史『パパリンコ物語』、楳図かずお『わたしは真悟』、原律子『元気があってよろしいっ!』や現在も続くホイチョイ・プロダクション『気まぐれコンセプト』のほか、糸井重里や田中康夫のコラムも連載されていた。この頃の「少年サンデー」「スピリッツ」など小学館周辺のマンガ状況については、島本の『アオイホノオ』にも、熱く描かれている。
雑誌がターゲットにしていたのはズバリ、サラリーマンだった。バブルでぶいぶいいわせていた当時のサラリーマンの懐から小銭をくすめるためにあれこれ特集が組まれていた。そのためか、「女の子本音を語る」代表として、内田春菊が読み切りをよく描いていた。85年4月10日発行の「ビッグコミックスピリッツ」増刊号では、「サラリーマン新スタイルブック」という特集を組んでおり「スピリッツは、ナウい、ステキなサラリーマンになる秘訣をさずけます。サラリーマン必読書として、永ーく、みんなの書棚に置かれんことを祈って、多才な作家陣をそろえました」という煽り文句があるほど。その他の執筆陣には、しりあがり寿、みうらじゅん、藤原カムイ、安西水丸、相原コージ、とり・みき、わたせせいぞうも。この顔ぶれから「ガロ」や「宝島」など、カルチャー誌で活躍していたマンガ家がメジャー誌に進出しているのが分かるだろう。
写真:マンガ家になる前の青春の煩悶と焦燥感を描いた島本和彦の(ほとんど)自伝的マンガ。でも、女性にモテまくっているのであまり悲壮感はない。帯にはあだち充、高橋留美子の激励ならぬ激怒コメントが。写真は08年に小学館より刊行された『アオイホノオ』1巻
88年に講談社「コミックモーニング」(現在の「モーニング」)へ投稿した『逆光の頃』が、第18回「前期コミックオープン ちばてつや賞一般部門 準大賞」を受賞し、マンガ家として本格的に活動をはじめることになる。『逆光の頃』の作風は林静一や鈴木扇二といった「ガロ」(青林堂)で活躍するマンガ家からの影響を感じられる作風でその内容を指し「叙情派マンガ」と称されている。
受賞作『逆光の頃』より。ちょっと安西水丸っぽい
『逆光の頃』は、当時の「ガロ」のトレンドとは隔たりがあった。一方で80年代といえば、タナカカツキも投稿していた「ビッグコミックスピリッツ」など、大手出版社による青年誌が次々に創刊されはじめた時期でもある。どの雑誌も慢性的な人材不足であった。新装版『逆光の頃』の座談会で、タナカカツキは「マンガ家としてデビューしたいというのがまずあったんですね。「ガロ」は原稿料が出ないって訊いていたので、応募は商業誌だなと。で、当時ちょうど「モーニング」とか「スピリッツ」とかいわゆる青年誌というものが出てきて、何でもそうですけど、できたばかりの頃って土壌がやわらかいというか、どこか実験的なものを受け入れる空気があったんです」と、当時を振り返っている。
「ガロ」は常にどこよりも早く有望な新人を発掘するのが専売特許であった。しかし、80年後半~90年前半になると青年誌がその役割をとって代わるようになり、「ガロ」出身作家もメジャー誌へどんどん進出していった。このため、明確なメジャーとマイナーの垣根がなくなっていく。言い方が悪いかも知れないが「ガロ枠」というようなマイナー風味なマンガが1、2本は必ず掲載されるようになっていた。
写真:「面白主義」を打ち立てていた82年「ガロ」6月号。80年代ニューウェーブ、ヘタウマと70年代までの「ガロ」が入り混じっている
【はみだしコラム2】
「ガロ」と青年誌67年に少年画報社「ヤングコミック」、68年に双葉社「週刊漫画アクション」、小学館「ビッグコミック」と、青年マンガ誌が次々と創刊した第一次青年マンガ誌ブームを経た後、80年代初頭に第二次青年マンガ誌の創刊ブームが起こる。79年に集英社「ヤングジャンプ」、80年に「ヤングマガジン」、82年講談社「コミックモーニング」(ともに講談社)などが次々と創刊。少年マンガの読者をそのまま青年マンガ誌へシフトさせる戦略に打って出た。
このため、いち早く60年代より少年マンガ誌とは違う、青年マンガ誌としての特徴を持っていた「ガロ」は、大手商業誌との差別化を図りにくくなり、80年代に入ると急速に「ガロ」は、求心力を失うこととなる。90年に高齢のため長井勝一が編集長を退き、コンピュータソフト会社のツァイトの山中潤が経営に加わり、リニューアルし、「ガロ」は過去の名作の再評価と再掲やサブカルチャー情報を充実させた。また、マンガ誌としてはかなり早い段階でDTPを導入するなど作業の効率化、営業努力もあって、低迷していた部数が持ち直す。これまで手に入りにくかった「ガロ」だが、地方の町の本屋さんにも配本されるようになっていた。
写真:過去の名作、未発表作が掲載されるようになる。91年「ガロ」9月号では、創刊時の功労者である水木しげるを特集
沼田元気によるおしゃれヌードグラビアが掲載されていたのもこの頃。また、あがた森魚監督による鈴木扇二『オートバイ少女』、石井輝男、竹中直人監督によるつげ義春作品の映画化といったメディアミックス展開にも積極的であった。この頃に活躍していたマンガ家はねこぢるうどん、魚喃キリコ 、鳩山郁子、古屋兎丸、キクチヒロノリ、Jerry、秋山亜由子など。他誌からは、既に「ヤングマガジン」でデビューしていた山田花子、花くまゆうさく、パルコ木下らも作品を発表していた。また、同誌にて86年に連載していた内田春菊の『南くんの恋人』のドラマ化や、ねこぢるが東京ガスのCMに使われ、キャラクターグッズが「キモカワイイ」と評判になるなどヒットした。
98年に自殺し、伝説のマンガ家となったねこぢる。未だに根強い人気があり、 08年には文芸春秋より『ねこぢる大全』として、全仕事がまとめられた。『ねこぢる大全』上巻
93年には、「SPA!」にて連載中だった小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』の「蒲焼の日」というタイトルの皇太子と雅子妃について描いた作品が掲載拒否になり、「ガロ」に持ち込み掲載されるという事件もあった。現在のように作家がブログやサイトを持ち、自分の意見を自由に発信できるような時代ではなかった頃、「ガロ」は原稿料は出ないが、自主規制という名の表現の自由が著しく損なわれつつあり、商業誌ではできない自由な表現ができる媒体として一定の支持を得ていた。
しかし、この安定期も長くは続かず、96年に長井の逝去、CD-ROM誌「デジタルガロ」の97年2月に創刊などにより、山中側と編集スタッフの間に亀裂が走り内紛が勃発。7月に編集スタッフが一斉に退職する異常事態に陥り、8月号を最後に予告なしで約1年の休刊を余儀なくされた。その後、退職したスタッフたちは手塚能理子を社長に青林工藝舎を設立し、「マンガの鬼」(現在の「アックス」)を創刊。多くの「ガロ」出身作家たちの活躍の場は同誌に移った。その後の「ガロ」は98年、00年に復刊。02年にはオンデマンド出版へ移行するものの1号で休刊し、現在に至っている。
写真:98年2月に青林工藝舎が発行した「マンガの鬼 アックス」vol.1。表紙はしりあがり寿
さて、次回はマンガ家として本格的に始動した『逆光の頃』や「ガロ」系と呼ばれるマンガ家が増えていった理由について、もう少し深く探りを入れていきたい。
いつも途中で何故かマンガ雑誌の話に脱線するのが醍醐味の本連載。興味を持った方は8月24日から『BRAINZーCULTURE COMPLEX SCHOOL』で開講する「マンガ漂流者(ドリフター)熱血授業編」もよろしく!詳しくはhttp://brainz-jp.com/vol4_lecturer/yoshida/をご確認ください~。
(文:吉田アミ)
【関連リンク】
タナカカツキ webDICEインタビュー(2008.12.5)
■吉田アミPROFILE
音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売された。8月24日より、佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める。
・ブログ「日日ノ日キ」