この季節、入ったカフェやインテリアショップ、アパレルショップで気がつくとボサノバが流れているということが少なくない。聞くところによると、日本はブラジルに次ぐブラジル音楽の愛好家大国だそうだ。ブラジル音楽がなぜ地球の裏側のここ日本で受け入れられているのだろうか?フランスの人類学者、レヴィ=ストロースによれば、ブラジル特有のサウダージという言葉は、過ぎ去ったものへの感情を表すポルトガル語のノスタルジアとは違い、むしろ日本文化の美意識のひとつである、もののあはれに近いという。両者とも人や物、場所の存在のはかなさに対するしめつけられるような気持ちだと。
ブラジル音楽ファンにおなじみのこのサウダージを、本場ブラジルの隣国、アルゼンチンで追求し続けているギタリスト・コンポーザーがアグスティン・ペレイラ・ルセーナである。生粋のブエノスアイレスっ子である彼は、十代の頃、兄が旅先のブラジルから持ち帰った、ブラジルギターの鬼才、バーデン・パウエルのレコードに衝撃を受け、ギターに開眼。以降、ブラジル音楽をベースにクラシックのフランス印象派やアルゼンチン・その他南米の国々の音楽を融合し、独自の音楽へと昇華させた。
その知的でスタイリッシュなギタースタイルは、従来のブラジル音楽ファンのみならず、DJを中心とするクラブミュージック好きな若いリスナーの心をとらえ、デビュー作の『Agustin Pereyra Lucena』や『Ese dia Va Llegar』のLP盤が中古市場で高値で取引されていたエピソードはファンの間でよく知られている。『イパネマの娘』の作詞者で、ボサノバの生みの親であるヴィニシウス・ジ・モラエスに、バーデン・パウエルとトッキーニョ以来の逸材といわしめた確かなギターテクニックと表現力は、ギター愛好家やジャズファンからの支持も高い。今年9年ぶりに新作『42:53』をリリースし、以前と変わらない卓越したセンスと高い音楽性を改めて知らしめたアグスティン・ペレイラ・ルセーナに、これまでの音楽活動の軌跡、新作への思い、今後の活動予定などを聞いた。
ヴィニシウス・ジ・モライスとの出会いとヨーロッパ滞在時代
── ブエノスアイレスのご出身とのことですが、どのような幼少時代でしたか?音楽との関わりはいつぐらいからだったのでしょうか?
私はブエノスアイレス出身のポルテーニョ(porteno=ブエノスアイレス出身者の愛称)です。母は、私が生まれたときに亡くなったので、叔父と叔母のもとで育ちました。宗教色の強い学校に通ったのですが、すぐに無神論者になり、私の神への信仰はそのとき芸術への信仰に変わったといえるかもしれません。叔父夫婦の家には、生前ギターを弾くのが好きだった母のギターが残されていました。兄弟が音楽好きだったこともあり、子供の頃から、ジャズやボレロ、クラシックなど音楽は身近な存在でしたね。
── ボサノバの詩人、ヴィニシウス・ジ・モライスの自伝映画『ヴィニシウス―愛とボサノヴァの日々』が最近公開されましたが、彼とは親交があったそうですね。あなたのデビュー作、『Agustin Pereyra Lucena』に推薦文を寄せたという彼との出会いはどんなものだったのでしょう?
ヴィニシウスと最初に会ったのは、1968年、彼がドリ・カイミやマリア・クレウザとウルグアイのプンタデルタという町に滞在していたときです。彼らの前でギターを弾いて見せたところ、気に入ったようで、その後何度も共演者としてコンサートに招かれるようになりました。後にグループに加わったトッキーニョとは仲の良い友人になりました。ヴィニシウスはユーモアのセンスのある、実に心の広い寛大な人でした。お酒が好きでかたときもウイスキーを離さなかった印象があります。彼の女性への情熱は相当なもので、8回か9回ぐらい結婚しています(笑)。
── 70年代から80年代のアルゼンチン軍事政権時代、ヨーロッパで活動していた時期もあるそうですね。
スペインを拠点にノルウェーやドイツなどで演奏活動を行ったのですが、とくにノルウェーでは大成功をおさめ、『La Rana』をリリースできました。滞在していたスペインにはアルゼンチン人がたくさん住んでいて、住みやすかったです。アルゼンチンは76年から83年の軍事政権の間、まさに暗黒の時代でした。私たちアルゼンチン人は、いまだにこのときの余波を引きずって生きていると思います。社会的、経済的、政治的にはもちろん、芸術面においても。何ひとつよいことをもたらさなかった負の遺産です。私はヨーロッパから戻りましたが、アルゼンチンに帰らず国外にとどまったアーティストも大勢います。
アグスティン・ペレイラ・ルセーナ『イパネマの娘』
女性ボーカルを前面にフューチャーした新作『42:53』
スーザン・ソンタグの著作『反解釈』の一節をライナー・ノーツに引用した意図
── インストゥルメンタルな曲が中心だったこれまでの作品とは違い、『42:53』は、女性ボーカルがメインの曲が大半を占めていますね。
今回の作品には、インストゥルメンタルな音楽だけではなく、私のソングライターとしての一面も見てほしいというコンセプトがありました。ボーカリストのアドリアナ・ヒオスと歌詞を提供してくれた詩人のギジェルメ・ゴドイのおかげで、そのコンセプトを実現できました。
── 『42:53』のジャケットはルセーナさんの自作だそうですが、よくイラストは描くのですか?
音楽以外にもスケッチをしたり、文章を書いたりするのは好きですね。実はPR会社で一時編集者として働いていたこともあります。『La Rana』をレコーディング中、ノルウェーのレーベルが提案してきたジャケットデザインが気に入らなくて、何点かスケッチをベースにその場でジャケットをデザインして見せたら、そのまま採用されたということがありましたが、アーティストの妻の強力なアドバイスもあって、今回も自作のイラストをアルバムのジャケットに使うことにしました。
── ライナーノーツにスーザン・ソンタグの有名なエッセイ、『反解釈』の「透明―これこそ今日芸術において、また批評において、最高の価値であり、最大の解放力である。透明とは、もの自体の、つまりあるものがまさにそのものであるということの、輝きと艶を経験することの謂である。」という一節が引用されていますが、その意図は?収録曲の『Transparente』はこのエッセイから着想を得て作曲されたのでしょうか。
今はアーティストの数より、批評家の数のほうが多い時代です。少なくともアートの世界では、多くのひとが作品を制作することより作品を分析する教育を受けています。そしてみなアートを説明したがりますが、アートを解釈することはアートを殺してしまうやり方だと私は思います。作品はそれ自体に価値があるという私の考えはソンタグの主張と一致しています。例えばインスタレーションの展覧会に行って、作品で何をしたのか作者が説明するのを聞く気にはなれません。『Transparente』はもともとCDのタイトルにと考えていました。この曲は音楽の知識には一切頼らず作曲しました。何のてらいもなく、まさにTransparent(=透明)に。
音楽で一番大切なのは誠実さ
本場ブラジルとは一味違うサウダージ
── ブラジル音楽以外で影響を受けた音楽にはどんなものがありますか?
出身地である南アメリカの音楽がもっとも自分の音楽に影響を与えていると思いますが、ドビュッシーやラベルなどクラシック・フランス印象派、ビル・エバンス、クレア・フィッシャー、ジョン・コルトレーンをはじめとするジャズも好きです。東洋の音楽やスペイン音楽、イタリア・ナポリ地方の音楽、サリフ・ケイタのアフリカ音楽やブルガリア合唱団もすばらしい。
── 『42:53』も含め、あなたのアルバムは全体の構成を意識したつくりになっているように思われます。最近著しい、コンピレーションやインターネット・携帯サイトでの音楽配信など曲をバラ売りするようなビジネスモデルへのシフトについてはどう思われますか。
同じような現象が本にも起きていて、本によってはインターネット上でも読めるようになりましたが、本を実際に手にとって読んでみた方がやはりよいと思います。同様に、曲がバラ売りされていても、オリジナルのCDの方がいいと考える人は常にいるのではないでしょうか?インターネットでの音楽配信については作曲家にとって著作権上大きな問題ですね。これまで何かしらの対策が講じられてきたとはいえ、十分とはいえません。早急に解決されるべき問題だと思います。
── 音楽をやる上であなたもっとも重視していることはなんですか?アーティストにとって一番重要なことはなんでしょうか?
誠実さです。
── どのようなものからインスピレーションを受けて作曲をしますか?
答えるのが難しいですが、夜、川、星からはインスピレーションを受けますね。
ブエノス・アイレスでのライブ風景
── 同名のアルバムに収録されている『Puertos de Alternativa』は日本の俳句にインスピレーションを受けて作曲したそうですが、日本と日本の文化に対してどのようなイメージをお持ちですか?
節度を擁する日本の文化と哲学は総体的にすばらしい。俳句はさまざまイメージを与えてくれますね。俳句から音楽が聴こえることもあります。
── 日本で20代、30代の若いファンがたくさんいますが、その理由はなんだと思いますか?
日本の人たちは私のギターを繊細に感じ取ってくれているようです。感想や批評で私の“サウダージ”について言及されていますが、ブラジル人のサウダージとはどこか違う私のサウダージが日本の人たちに受け入れられているのかもしれません。このことは私としてもとても嬉しいですし、いつか日本を訪れてみたいと思っています。
ソロアルバムと、アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュートライブのCD化を企画中
── 現在のアルゼンチンの音楽シーンはどうなっているのでしょうか。注目しているミュージシャンはいますか。
やはりタンゴが人気がありますが、最近はモダンなタンゴグループがたくさん出てきています。Tango Locoはそのひとつですね。アルゼンチンフォルクローレはタンゴほど国際的に認知されていないですが、Carlos AguirreやRaul Carnotaなどに代表される、伝統的なスタイルに新しい要素を取り入れたフォルクローレをやっているすばらしいミュージシャンがいます。
── 共演してみたいミュージシャンはいますか?
イヴァン・リンス、セザール・カマルゴ・マリアノ、ギンガ、トニーニョ・オルタ、フランシス・ハイメ….。彼らの音楽は大好きで、よく聴いていますが、いつか共演してみたいです。
── ちなみに、ジェイムズ・アイボリー監督作品『The City of your final destination』(出演:アンソニー・ホプキンス、真田広之、シャーロット・ゲンズブール/2007年制作/日本未公開)という映画のプロジェクトに参加されたそうですが、いかがでしたか?
まだ公開前なので、自分の出演シーンがどれくらいの長さなのかわからないのですが、映画の中ではボサノバを数曲と自作の『Sambaden』をタンゴ風にアレンジして弾いています。その場で演奏が録音されたので、非常にリアルな仕上がりになっていると思います。アイボリー監督は、私の音楽を知っている友達から私のことを聞いたようです。キャスティングに呼ばれて数ヵ月後、ブエノスアイレスから100km離れたところにある豪華な撮影所にくるよう依頼がありました。自分の出番まで12時間待たされましたが、待ち時間の間ギターを弾いていたら出演者が喜んで一緒に歌ったりして、楽しかったです。アイボリー監督はとても親切にしてくれました。自分が何を欲しているのかよく分かっている非常に繊細な人という印象があります。出演者のひとり、真田広之さんとは、話す機会がありましたが、きさくな方で、私の音楽を気に入ったと言ってくださって嬉しかったですね。
── 今後のプロジェクトや企画をお聞かせください。
8月にはシンガーソングライターのべト・カレッティと偉大な作曲家、アントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュートライブを行う予定で、このライブをCD化できればと思っています。ソロアルバムの制作も企画中です。
(取材:小倉富規子 / 構成:牧智美)
参考文献:
『サンパウロへのサウダージ』 クロード・レヴィ=ストロース、今福龍太著
みすず書房(2008年)
『反解釈』 スーザン・ソンタグ著
筑摩書房(1996年)
アグスティン・ペレイラ・ルセーナ『42:53』発売中
バーデン・パウエルの情熱を胸に宿したアルゼンチンが生んだ孤高のギター侍、アグスティン・ペレイラ・ルセーナによる待望の最新アルバム!
定価2,520円(税込)
発売元:P-VINE Records
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