骰子の眼

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2009-08-07 19:10


『マンガ漂流者(ドリフター)』第15回:真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.7

今回で鳩山郁子シリーズ最終回。鳩山が描く「少年」とは一体、何者なのか?鳩山作品の核心をつく!
『マンガ漂流者(ドリフター)』第15回:真実から眼を背けることで想像力を掻き立てるマンガ家・鳩山郁子 vol.7
左)04年改訂版『スパングル』(青林工藝舎)。右)98年『青い菊』(青林工藝舎)

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幾つかの視座を交えて、時代背景、影響、作風の変化から鳩山郁子の作品とは「何か」を照らし出してきた。ここで最後の疑問が湧く。彼女の描く「少年」とは一体、何者なのだろうか?それにはまず、「少年」の絵柄の変化に注目したい。まず、「JUNE」に掲載された作品を見てみよう。

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左)85年の「小説JUNE」2月号に掲載された『ATELIER』。右)88年「JUNE」11月号に掲載された『ソプラノ』。単行本未収録作。

華奢な体躯に赤い口唇をもった表情のない「少年」たちの姿は「人形」や「少女」を想起させる。顔のアップが多く、いわゆる「キャラクター萌え」に誘導させられる。ここでは、少年「美」ではなく、あくまでも「美」少年として描かれているといえる。

87年の「ガロ」と「COMIC BOX」の作品は「JUNE」に掲載された作品と比較すると、全体的に俯瞰した視点が多く、「少年」を中心が扱う「ガジェット(小道具)」への興味を引き立たせている。これは、これまでの連載で指摘したとおり、稲垣足穂的な世界観を有したマンガ家の影響を強く感じる。まだ、ここでも少年たちの口唇は赤い。

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左)87年「ガロ」1月号にて紹介したデビュー作『もようのある卵』。右)同時期に「COMIC BOX」に発表された『エレクトリック・ローズ』。

次に90年以降に「ガロ」を中心に発表された作品を見てみよう。ここで「JUNE」、「ガロ」、「COMIC BOX」への作風の融和が見られ、初期の作画が確立されたのが分かる。

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左)90年「ガロ」9月号『リリー、ランタン、ロータス』。右)91年「ガロ」6月号『Limonea Act I』。

しかし、まだ少年たちは「人形」のように表情がない。ほとんど固まった表情で、口を少し空けるのみだ。

変化が現れたのは、93年の『青く染めらた青のなかに』。島で暮らす兄、弟の成長と母との関係を描いた描き下ろし作品だ。母と兄弟のキャラクターを描き分けないことで、まるでクローンのように母と子が同一化しており、口唇から血の気が失せる。ここまでの鳩山作品では、この心地の好い「世界の同一化」が、一つの美しい完成図として描かれていた。しかし、この作品で世界に亀裂が走る。描き割りの中で役割を演じていただけの「少年」に意志が与えられ、「変化」の兆しが見える。母親の希望に従い「成長を望む兄・ミテキ」と、「無意識に成長を拒む弟・タキ」が対照的であり、恰も「少年」の成長過程を模倣しているかのようだ。

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世界を青く、理想だけで染め上げようとする「アオアズマヤトリ」に憧れる弟・タキ。93年、描き下ろし『青く染められた青のなかに』より。青林堂から刊行された単行本「スパングル」収録。

『リリー、ランタン、ロータス』で描かれた少年の母親は、ほとんど言葉を発っせず際立った個性がなかったのに対し、同作に登場した母親は父親との暮らしを夢見ており、その希望を子に語る。

最後に島の外で生活している父親から手紙が届くと、「ね、ミテキ 私達 島を出ましょう」と母親が物分りのよい兄のミテキに提案する。ミテキは自分の本心を語らず「ママ、ママはずっとそう願っていたんだろ?」と気づいている。母親は「そうね あなたが大人にならないうちにって 思ってたわ 私、はじめのうちはキャンプでもするかつもりで毎日をやってきたわ タキは今でもそう思っているかも知れない―」と明かす。

この世界(島)の構造は「ループ世界」なのである。成長、変化を拒み、ただ、そこに在るだけの「世界」。登場人物に意志が与えられないのはそのためだ。キャラは決して意志を持って行動できないのである。この世界の「外」は存在し得ないはずだった。母親は続ける。「だけど、あなたはそうじゃないでしょう キャンプは永久に続けるものじゃないって 気づいてる筈だもの」、唐突に突きつけられる宣言。この世界の「完璧さ」はいつか、崩壊すると気がついていた兄、ミテキはその宣言を拒まない。母の望む世界の象徴として、「ママの忠実な石(ターコイズ)が叶えた希望の青」と、永久に閉ざされ完璧さを失わない象徴として「あの少年の形作る歪な薔薇窓の青(ブルー)」の二つの「青」。「少年」は、世界を敢えて選ばないのだ。意志を与えられず、選ぶ自由がなかった描き割りの中の完璧に美しいまま永久に存在する「世界」の少年たちとは違う、物語のグラデーション。ミテキが持つことを許されるのは切り取られた世界の「一部」。この世界は母親の夢で出来ている。まるで涼宮ハルヒのように。彼の諦念が彼を成長させるのである。

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『青く染められた青のなかに』より。

【はみだしコラム】完璧から解き放たれる「人形」たち


 「メカニズムと少年 あるいは男根的自己愛」澁澤龍彦

 ホフマンのオリンピアも、リラダンのアダリーも、機械仕掛で動く人工美女だった。しかしメカニズムは、そもそも美女よりは少年にこそふさわしいのではあるまいか。ここに四谷シモンの独創があって、彼はメカニズムを少年に結びつけたのである。そして男根的自己愛をストレートに表現したのである。

 諸君、ちょっと考えてみたまえ。蜻蛉の羽根をむしるのは少年である。天体望遠鏡をのぞくのは少年である。さくさくと雪を踏んで歩くのは少年である。オナニーとポエジーが一致するのは少年においてのみであろう。UFOは少年にしか見えないであろう。時分の花は少年のものである。網上靴は少年にしか似合わないであろう。サン・ジェストもランボーもガロワも少年であった。団地の屋上から飛び降りて自殺するのも少年である。彼はおそらく天使になりそこねたのだ。なべてこの世の秘密は、少年のために残されていると言っても過言ではないだであろう。

 シモンが自動人形製作の構想を立てはじめたのは、もうずいぶん前のことになる。幾度かの試行錯誤を経て、メカニズムに強い良き協力者を得るとともに、ようやくここに発表の段階に立ちいたったことは、私のもっとも喜びとするところである。

 さあ、われわれは心置きなく、メカニズムに立脚した少年賛歌を歌おうではないか。

(1980年四谷シモン個展パンフレット/1986年10月17日発行「夜想」19号 特集★幻想の扉 より)


鳩山郁子の描く「少年」は現実にはいない理想の「少年」である。人が作り上げる造形物にのみ宿る永遠性を讃えている。ベルナール・フォコン、四谷シモン、秋山まほこ……数々の人形作家の名前が浮かぶが、今回はここからマンガで描かれた「人形」を紹介したい。

人間になることを夢見る人形を描いた作品といえば、この連載の中で紹介した内田善美『草迷宮』、藤原薫の『思考少年』、ダッチワイフを描いたものだと手塚治虫の『やけっぱちのマリア』、最近だと業田良家の『空気人形』、三原ミツカズ『DOLL』、岩館真理子『キララのキ』、セクサロイドの類まで入れると木城ゆきとの『銃夢』、「人形的に扱われる少女」というところまで解釈を広げれば、相田裕の『GUNSLINGER GIRL』、岡本倫『エルフェンリート』、田中ユタカ『愛人』、高橋しん『最終兵器彼女』と枚挙に暇がない。

欠けた人間が成長していく「王道」の物語を描くときに、「人形的」なキャラクターは好まれ、深い感動を生み出す。さまざまな物語が紡がれてきた背景には、この世界がそうであるように「完璧」で取り付く島のない世界よりも、「不完全」でありながら、そこを生きるしかないと歩み出す姿に読者は自らを重ね、共感するのである。確かに、成長は「正しい」。健全なものは、気持ちがいい。そういった王道から逸れ、歪で不健康な世界でなければ描けない世界もある。

PEACH-PIT

■PEACH-PIT 『Rozen Maiden』

02年より、幻冬舎の「コミックバーズ」にて連載され、07年に終了。現在は集英社の「週刊ヤングジャンプ」にて連載されている作品である。移籍時にあったいざこざから、「コミックバーズ」版(後に集英社より新装版として発売されている)は、唐突に終了し、作者の望んだ形とは違う最後を迎えている。継続する「ヤンジャン」版を正しい物語が描かれていく、と期待すれば希望が持てるが、「コミックバーズ」版を唯一の物語として読むと、非常に後ろ向きな物語に読める。こちらの物語では、主人公の少年、ジュンは「引きこもり」のまま、「自分の現実」ではなく「人形の現実」を救うという行動を選んだところで終わるからだ。「ヤンジャン」版が終わらない現在、どのような結末が与えられるか分からないが、「コミックバーズ」版に通呈する「病んだ世界」もまた、美しいのかも知れない。ちなみに第1話で美少女人形を見た主人公の姉がダッチワイフと勘違いするシーンが……。欲情も込みの美少女人形として、ローゼンメーデンは病んだ魅力を振りまいている。


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■長田ノオト『ノオトピア』

江戸川乱歩や大槻ケンヂの「ステーシー」のコミカライズでも知られるている長田ノオトの94から96年に発表されたボーイズラブ作品集。掲載誌が竹書房の「麗人」ということもあり、露骨な同性愛の性描写が多い。この中の『飼育少年』は、主人公の少年が自分が恋する保険医をストーキングしたらビックリ!なんと保険医は自分ソックリの少年を愛していた。それを知った少年はその自分ソックリな少年と入れ替わろうと画策、しかし、ソックリの少年は実はシリコン製のダッチボーイだった、ちゃんちゃんというオチ。耽美とエロに傾倒しきるのも楽しいものだ。




青、赤、そして、駆け去る夏。

『青く染められた青のなかに』で描かれたように「青」は鳩山作品には欠かせないモチーフだ。90年、「ガロ」8月号に掲載された『紅切子、青更紗』でも、「青」は効果的に使われる。主人公の夏彦が野外幻燈会で配られた立体映像を見るための専用眼鏡。本来なら青と赤のセロハンが両目の部分に貼られていなければならないのに、夏彦が受け取った眼鏡は双眼とも青いセロハンが貼られていた。スタッフの少年に夏彦が不備を訴えると、幻燈会を楽しめなかったお詫びにといって、夏彦の好きな青いミント水のシロップを渡されたのだった。幻燈会の開催のために町から町へと移り行く、少年と夏彦が最後に昼間に逢瀬を重ねたとき、少年の「マリア」のお守りに気がつく。「何故、マリアは青と赤の服を着ているのだろう?」疑問に少年は「……心臓(ハート)だからかな」と答える。この「赤」の象徴であるマリアとは、女性の象徴であった。青が男性の象徴であるように、二つの性が交差するさまを「赤と青が絶えず循環している それで世界は活性するの?」と夏彦は問い、結果、「世界は本当らしくみえる」。しかし、彼がはじめて知ったのは、赤を持たない青の世界。それを通して、少年を見つめたときに夏彦は知る。その「彼の世界は 赤いセロハンをもたない 静脈の夜だったんだ」と。そして、少年は夏と共に去っていく……。

この交流を同性愛的なる「愛情」と捉えることも「友情」とも捉えることができるだろう。そもそも幼少期の愛情とは友情と混同しやすい。私たちはこの淡い感情に概視感を覚えるだろう。それは「少年」であっても「少女」であっても性別によって分け隔てられる感情ではない。確かにかつてこんな淡い想いを抱いたことがある、それだけは真実である。鳩山の描く「少年」たちの存在があまりにも希薄すぎるので、私たちはこんなふうに「誤解」できる。もし、この「少年」の口唇が「少女」のそれのように赤く描かれていなければ、ただの同性愛として無関係と切り捨ててしまっていたのではないだろうか。鳩山の描く「少年」の性別の曖昧さが、読者を幻惑させるのだ。

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90年に「ガロ」8月号掲載『紅切子、青更紗』より。

青がもたらす完璧さと赤がもたらす不完全さが交錯する時、「これが、世界だ」と差し出される。しかし、それでも青に焦がれてしまう気持ちを止めることができるだろうか? その「どうしようもなさ」を求めるのは「少年」が好ましい。世界の狡さも不完全さを知っていて無視をするのは「少女」の役目なのだから。


『カストラチュラ』以降の物語

青と赤が融和して、鳩山郁子の「物語」は完璧から不完全さと不確かさを獲得した。そうした物語の中で、「少年」はただ純粋で完璧で無意識な儘、在ることは許されない。『カストラチュラ』の少年たちは、これまで能面面だった「人形」のような表情を一変させてしまう。感情が少年たちに宿る。

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顔を歪ませて殴られる少年。『カストラチュラ』より。

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幼い男性という意味での、いわゆる少年ではなかったけれど。少年と少女とを隔てるものはどこにあるのだろう? これはことば遊びにすぎないかもしれない。だが、男性は少年にしかなれないが、女性は少女であると同時に「少年」にもなれるのではないかという思いがある。「未生のもの」という意味においては。

写真:茂田真理子「タルホ/未来派」

鳩山が「少年」に託したものは何だったのか。鳩山は「女性である自分が少年を描くこと」について、苦悩したこと、そして、茂田真理子の論文「タルホ/未来派」と出会い、迷いを絶つことができたと「INTERREST」のインタビューに「やはり著者の茂田真理子さん自身が論文を書く上で、タルホに深く共感しつつも自分が女性であることで、「自分自身」としてタルホと向き合えないでいた葛藤のこととか、いやそうではない、「男性/女性」という対立で考える必要は少しもないのだ、それ以前の未生の存在としての自分も確かに「少年」ではあったのだ、と書いておられたその部分を読んで、ああー、そうなんだと」と答えている。

多くの「稲垣足穂ワールド」を有する男性作家から抜きに出た瞬間であった。鳩山の作品に「少女」と「少年」の視点が両立し、「生」と「死」が相反することなく、混在するのはかつて少女の中にあった「少年」を発見したからなのだ。

『カストラチュラ』以降の鳩山作品には、「少年」「少女」と自分と近い「女性」や「男性」の存在も違和なく打ち解けている。完璧な世界のために配置されたキャラクターに「意志」が生まれ、「キャラ」として動き出す。『カストラチュラ』に登場したカストラートのシャーロット・リンというキャラが生まれることになる。

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断じてギャグではない。同じマンガのキャラである。カストラートは加齢により、風船のように膨らむように太ってしまうという史実を元にしている。『カストラチュラ』より。

『カストラチュラ』の最後にシャーロットから託された「入れ子の器」を主人公は壊す。その「入れ子の器」は、「世界」であり、「シャーロット」そのものであった。完璧に近づく球は、外部の存在によって破裂させられる運命なのだ。その役目を主人公の少年、マオは受け入れ、暗闇に放った「入れ子の器」の外皮を破壊し、その中に不変の存在を見つけ出す。世界を構成する「核」とは一体、何だったのだろう。不変たりえる「永遠」はこういった形でのみ存在できる。不確かな世界の中の「真実」を最後に直視する。『カストラチュラ』は、完成されていないからこそ、こんなにも美しい。つまり、これが作品の「完璧さ」なのだ。

『カストラチュラ』で、示された世界のグロテスクな美しさは、続編にあたる『シューメイカー』では意外なかたちで発展する。01年に「アックス」vol.22より連載された『滴翠珠』では、舞台を70~80年代のイギリス、ロンドンに移し、「パンク/ニューウェーブ」の洗礼を受ける。絶対に現実ではありえない取り合わせが出合う、折衷の美学。中国の纏足のカストラートとロンドンの靴職人が会合するというファンタジー。ほとんどアクロバティックな物語を「納得」させてしまうように、鳩山の描く世界は「本当らしく」読者を騙してくれる。これからも、彼女の美学に基づいて出合わない世界と世界を結合していってほしい。そんな世界を私たちは楽しみたい。

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コミカルな掛け合いとくるくる表情の変わるキャラクターが魅力。郷に入れば郷に従え。解剖学の天使もすっかりイギリスかぶれだ。『シューメイカー』より。
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というわけで、長らく続いたエンドレスエイトもこれでおしまい。途中で『涼宮ハルヒ』を例にあげたが「ループもの」が好きな人に鳩山作品はおすすめ!耽美の箱に入れて読まないのはもったいない。免疫がない人は、キャラ立ちしている『シューメイカー』から読むと分かりやすいだろう。
さて、次回からは太田出版から新装版『逆光の頃』が発売されたばかりのタナカカツキ編がスタートします。タナカカツキと言えば『バカドリル』や『オッス!トン子ちゃん』『ブッチュ君』といったナンセンスギャグが魅力ですが、鈴木扇二や林静一、森雅之を思わせる抒情的な作品でデビューしています。しかも、講談社の「モーニング」というどメジャー誌。青年誌に抒情派作品が載っていたってどういうこと? そんな秘密も探っていきます。


brainz

さらに告知!
佐々木敦さんが主宰する小規模、少人数、小空間での、インディペンデントなレクチャー・スクール「BRAINZーCULTURE COMPLEX SCHOOL」にて、授業を受け持つことになりました。その名も「マンガ漂流者(ドリフター)熱血授業編」!この連載で語れなかった部分や私にしか分からない視座で「マンガ」を通して、90年代の文化、受け手と作り手、「マンガ」とは何なのかを授業を通して明らかにしていきたいと思います。私たちの漂流は広がり、続くのです。受付14日まで。
http://brainz-jp.com/vol4_lecturer/yoshida/をご確認ください!第一回目は8月24日開講。宜しくお願いします!


(文:吉田アミ)


吉田アミPROFILE

音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にセルフプロデュースのよるソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、アルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門「astrotwin+cosmos」で2003年度、グランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、カルチャー誌や文芸誌を中心に小説、レビューや論考を発表している。著書に自身の体験をつづったノンフィクション作品「サマースプリング」(太田出版)がある。2009年4月にアーストワイルより、中村としまると共作したCDアルバム「蕎麦と薔薇」をリリース。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売される予定。また、「このマンガを読め!」(フリースタイル)、「まんたんウェブ」(毎日新聞)、「ユリイカ」(青土社)、「野性時代」(角川書店)、「週刊ビジスタニュース」(ソフトバンク クリエイティブ)などにマンガ批評、コラムを発表するほか、ロクニシコージ「こぐまレンサ」(講談社BOX)の復刻に携わり、解説も担当している。6月に講談社BOXより小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」が発売された。近々、佐々木敦の主宰する私塾「ブレインズ」にて、マンガをテーマに講師を務める予定。
ブログ「日日ノ日キ」

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