少女は探す。耳を澄ます。
どこかで助けを求めている(?)、
誰かの声に、耳を傾けている。
「何か呼んでる?どこ?どこ?誰なの?どこ?どこ?どこ?どこなの?どこにいるの?どこ?どこなのよ?どこ?」
彼女は地上の天使。
少女は当初、ただ歩いている。
ある時は、街なかをハミングしながら、
ある時は、買ったジュースを飲みながら、車の行き交う道の上を、
また、ある時は狭い路地を、ブロック塀に手をつきながら、
手探りで、さまようごとく。
いつのまにやら彼女は、どこか地下の駅構内にいる。
電車の中を駆け抜け、再び地上へ舞い戻る。
道端に落ちた紙くずに、導かれるように彷徨う少女は、
やがて電話ボックスに入る。
そこにあった電話帳を引き裂き、その切れ端を放り投げ、
電話ボックスの前にしゃがみこむ。
そして立ち上がった彼女は、
再びどこかへ向かって歩き出し、
道にしゃがみこみ、
地面に耳をあて、
ひたすら耳をすますのだ
どこかで彼女を呼んでいる(?)
誰かの声に。
どこかにある住宅街。
その中にある、どこかの空き地で、
一人、ポツンとたたずむ少年。
白塗り、学ラン、眼帯姿。
かの丸尾末広氏描くところの、少年を思わせる彼のもとに、
やがて、一人の怪人物が、よろめきながらやって来る。
こちらも白塗り。
血のような染みの付いた白衣を来ている。
何やら、昔のロボット漫画に出てくる「博士(ハカセ)」を思わせるこの男、
(演じてゐるのは誰でせう!?)、
少年の前にしゃがみこみ、彼に何かを告げる
((少年に向かい男の突き出す、白手袋に包まれた、右手の人差し指。
その美しさが、なぜか不思議に心に残る)。
少年は、
為す術もなく、
ただ「博士」の話に、耳を傾けている。
場面は変わり、いつの間にか、少年は町を彷徨っている。
郵便ポストをけっ飛ばし、時に髪をひっかき回す、彼の姿はまるで、
何かに苛立っているかのようだ。
そのままあてどなく彷徨い続ける少年は、
次第に、苦悶の表情を浮かべ、
苦痛に身を捩り、フラフラと歩き出す。
時に左手で、右肩を押さえ
(メメクラゲにでも噛まれたか!?)
道沿いの塀に身をもたせかけ、
道端にある石灯籠に、手をかけたりしながら彼は、
ひたすら苦しみ抜いている。
地べたにしゃがみ込み、のたうち回る。
よろめき、その身を痙攣させながら、彼はのたうち回っている。
そして少年は、どこかの路地裏、ゴミが散乱した場所に辿り着き、
地面に倒れ込んでしまう。
まるで誰かに助けを求めるように、
はげしくその身を痙攣させ、ジタバタさせ、
のたうちまわっていた少年は、
やがて、
ネジの切れたゼンマイ仕掛けの人形のように、
プツン!
と、動かなくなる。
それから、彼の身につけた学ランの胸元が、
独りでにはだけた時、
観客は彼が何者であるかを、初めて知ることになるだろう。
冒頭から最後まで、ひたすら都市を駆け抜ける、地に通じる黄金仮面。
白塗りのその顔で、
時に地べたに倒れ込み、
何事もなかったかのようにまた歩き出し、不敵な笑みを浮かべつつ、
最初から最後まで地下を徘徊し続ける、謎の男(=地下の堕天使?)
どこかの神社。その境内。
一心不乱にものを食い、
やすらかな寝顔で石畳に横たわった後、
突如として神がかる、着物姿の少女(=天に通じる巫女?)。
そして、要所要所に現れ、
その圧倒的な存在感で、観る者を圧倒する、
「表現者」・成田MIU(リビドー)。
「目まぐるしいカット割り、音の洪水」
(「福居ショウジン・公式WEB SITE」より)
http://fukui-shozin.com/
に圧倒されつつ、そこに登場する人物
(ていうか、彼らはそもそも通常の意味での「人物」と呼べるんだろうか?)
の中で、ひときわ僕の印象に残ったもの。
それは、最初に記した二人、
まるで「見えない力」(サイキック?)に導かれるようにして、
感応しあう少女(=地上の天使)と少年(=?)の姿だった。
現在公開中の映画、福居ショウジン監督の最新作『the hiding-潜伏-』。
その同時上映作品『出れない』は、
「ネット」という、「現代の魔法」とも呼べるツールを通じて、
二人の男女が、実際には一度も出会うことのないまま、
お互いに惹かれ合う、そんな物語だ。
この作品の原型である『怨廻』は、
もともとホラーDVDの装いで発売されている。
しかし今回、タイトルも新たに生まれ変わった
(いや実は今回の『出れない』こそが、当初監督の考えていたタイトルだったのだ)
この作品をアートンで観たとき、
自分はこの作品が(5月12日に行われたトークショー[http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=31013595&comm_id=2854361])での、
佐々木誠監督の言葉を借りれば)
「無償の愛」を描いたラブストーリーであることに、遅まきながら気づかされた。
『出れない』の主人公である、引き籠もりの男女。
その原型を僕はついこの間、
実に四年ぶりに!見かえした、
『キャタピラ』の中に見出した。そんな気がしたのだ。
「お前、深読みしすぎやで!」
と笑われるかも知れないけれど、たしかに自分はそう感じたのだ。