本作品で監督・脚本、衣裳、編集までを手掛けたグザヴィエ・ドランの徹底したリサーチに裏付けられた90年代という時代表現に圧倒された。ドランが生まれた1989年に始まるロランスとフレッドの物語。近代的なビルと古い建築が混在し融合する90年代のモントリオール。ファッションもインテリアも、欧米とはどこか違う色彩を放っている。つい二十年前、モントリオールでもトランスジェンダーが精神病として扱われていたということに驚いた。
洗車中の車の中、まだ愛に何の恐れも感じていないフレッドとロランスが話す。
「チョコレートは食べない」という二人だけのスペシャルな決めごと、「黄色は激しいエゴの色」、「茶色は性に対する色」、「赤色は怒りの色、燃え上がる色、スペシャルな色」、「ピンクは子ども部屋に使ってはいけない」など、二人の問答が続く中、ロランスはフレッドに女になりたいと初めて告白する。
ロランスの恋人フレッド役のスザンヌ・クレマンの熱演に圧倒された。それは、同性として感情移入してしまうほど、激情的になってしまう女性のもろさと相反した強さが、台詞によって一言も漏らさず表現されていたからだ。
キーワードとなる色彩は、作品の随所に登場する。
台詞では語られることのない部分を、壁だったり空だったり景色だったり、聞こえない言葉を発する≪色≫がその時の感情を確かに現わしていた。そこにいくつもの美しい音楽が絶妙なタイミングで重なっていた。
フランス映画祭のとき、「しっかりとしたシナリオで描かれていたのが素晴らしいと感じ出演を承諾した」と話していた母親役のナタリー・バイ。ドランの過去の2作品を観て、母親像を把握していたと話す。
母親とロランスが話す台所の黄色い壁が印象的だった。
ロランスの「女になりたい」という告白によって激しい動揺と必死の理解を繰り返す中、フレッドの髪の色は赤く染められたまま。二人は別れ、十年が経過する。
真っ青な空から、カラフルでポップな色彩の衣類が降り注ぐ中、再び出会ったロランスとフレッドが軽やかな足取りで歩いている。フレッドの髪の毛はまだ赤い。
そこには、黄、赤、ピンク、青、白など、混じりけのない色彩があり、まるでクリスチャン・ボルタンスキーの『No Man's Land』の、神の手ならぬUFOキャッチャーのような高性能クレーンから降り注いでくるカラフルな衣類作品を彷彿とさせるようだった。それは、神からの祝福なのか、二人の門出を現わしていたのか。
二人は再び別れ、三年が経過する。
再会したフレッドの髪の色は、赤から茶に変わっていた。
アメリカから戻ったロランスが心身ともに女になったことを知り、動揺して赤い壁のトイレに逃げ込むフレッド。ラストシーンに流れるCraig Armstrongの「Let's go out tonight」 とともに、茶色の枯葉が舞う中、フレッドが歩いて行くシーンが美しく切なかった。
ロランスもフレッドも、出会ったときから絶え間なく相手を好きという情熱で満ち溢れている。本音と本音でぶつかり合う。ロランスはたとえ告白しても、フレッドが望む男の姿のままでいれたかもしれないし、フレッドも自分の心をすべて裸にして告白してくれたロランスへの愛に答えられたかもしれない。双方の一方的な愛の形に「無償の愛」は存在していない。
作品を観ながら、昨年、品川の原美術館で開催されていたジャン・ミシェル・オトニエルの『My way』展の会場に足を踏み入れた瞬間の感情が蘇ってきた。映画を観ながら過去の展覧会のシーンが蘇ってくるというのは初めての経験。繊細で美しすぎて、静かなのに激しい、共通した人間としての苦悩と喜びが垣間見えたからかもしれない。