【少女の想像力】
突然父を失くした少女は大きな木に父のささやき声を聞く。
木になった父は、宿題の答えも教えてくれる。
でもこれはファンタジーではない。
豊かで切実な想像力=イマジネーションは現実を超えて真実に触れる。
その想像力は空想=ファンタジーでも妄想=デリュージョンでもない。
木の上で暮らしていた遥かな祖先はやがてその木から降りたという。
それはアナロジカルな寓話だけど人間は動物たちの幸福、植物たちの幸福からはみ出し、「愛」としか名付けようのないどうしようもない感情を得てしまった。
人間に「愛」はなくならないだろう。
その「愛」は愛する人の具体的な記憶にあり、その記憶を「魂」と呼んで何の違和感もない。
まず子どもを信じ守らなくてはいけない。
これはメッセージでもなく暗喩でもない。
動物としての本能ですらないかもしれない。
人間がどこかで求め続ける過去と未来の記憶。
それを子どもの想像力に見つけ思い出す。
子どもの瞳をにすべてを理解する瞬間がある。
この映画でシャルロットが理解したように。
【女は存在する】
オーストラリアの大自然を背景に、生きている木が物語の中心に根を張っている。
その周囲に暮らす家族の物語。
こう書くと、ファンタジーや寓話のようだ。
繰り返すが、この映画はファンタジー=空想でも妄想でもない。
とてもシンプルで繊細な物語。
無駄なものがない。
映像も台詞も俳優たちの演技もまるで無駄がない(パブでのキスシーンを見よ)
「最初、彼女は若すぎるんじゃないかと思いました、彼女が母親だということをすっかり忘れていたのです」
シャルロット・ゲーンズブールについて監督の言葉。
私もすっかり忘れていた。
この映画を見るまでは。
シャルロットという女性のシンプルで繊細な表情。
その繊細さはカメラや観客に甘えるような弱々しさではない。
ときとして母であり、ときとしてオンナであり、ときとして少女であり、
見る角度によって微妙な陰影で印象が変わる立体の女性がそこにいる。
(木の根の間でからだを丸め眠る少女、惹かれた男と抱き合うオンナ、崩れる家の中で子どもを抱える母)
それは場面よって表情を使い分けるような、いわゆる演技のうまさではなく彼女の佇まいがそのまま「そこにいるひとりの女」をあらわしていた。
ジャック・ラカンというフランスの思想家・精神科医は「女というもの(the woman)は存在しない」と言った。
一様な定義を拒み、同定しようとした途端にすり抜けてしまう女というもの。
この映画には、the womanではなく、a womanが存在していた。
【個人的な蛇足】
ジャック・ラカンという名前を出してしまったついでに蛇足を書けば、
母と娘の関係には、男の私には立ち入れないものがあると感じている。
エディプスコンプレックスという用語の教科書的な説明を知らないでもないけど、
木が父親の象徴であるとか、オンナとしての母親を認めないとか、
精神分析的な解釈は誰かにおまかせしたい。
母と娘は神話的にも心理学的にも、男には根本的に理解出来ない関係なのかも知れない。
と言って不可知論にするとまるでレビューではなくなるけど。
父と娘は描きにくいのかも知れないな、と余計な想いに繋がっていく。
【あらかじめ誤解された題名】
「パパの木」という邦題には少々文句がある。
まず「パパ」なんて言葉はこの映画に出てこない。
みんなDaddyかDadと呼んでいる。
「パパの木」だと少しスイーツに語られてしまうんじゃないかと余計な心配をする。
私は単純に「ツリー」としてもよかったんじゃないかなと思う。
クリスマスツリーも出てくるし。
「The Tree」という原題には少し驚いた。
誤解と嘲笑を承知で言えば、スティーブン・キングの小説が原作だと言われても信じてしまいそうだ。
「ザ・ツリー」という邦題ならキング的なホラーにもなる。
「魂を宿した巨大な木が子どもに囁き、恐怖をもたらす」
といった適当な惹句は真実ではないがまったくの嘘ともいえない。
少なくとも私自身はこの映画を見ながら絶えずこわかった。
自然に恐れ、怖れ、畏れを感じないものはいないだろう。
自然への「おそれ」を忘れたとき人は自然と断絶してしまう。
その断絶が人を不幸にした。
一時の便利さや仮の豊かさに目がくらんで。
【夏のクリスマス】
水着になって、浜辺で戯れる南半球のクリスマス。
浜辺のバーベキューとクリスマスツリー。
愛する父のいない夏の海辺のクリスマス。
必要以上に感傷的になるのではなく、ただ、そうなのだ。
ということを描く夏の海辺のクリスマス。
お父さんのいないクリスマスをなぜみんな楽しめるのかという娘の怒りに、
「楽しそうに見えてもお父さんのことを誰も忘れてはいないのよ」という母。
愛する人を亡くしても生きていかなくてはいけない私たち。
それは理不尽で誰にも正しく説明なんてできないこと。
娘を抱きしめる母にもわからない。
波の音がその答えなのかもしれない。
【強靭な映像の倫理】
ラストシーンで子どもたちの表情が見えなかった。
正確に書くとカメラは子どもたちを写さなかった。
子どもの表情を何故見せない?と思いながらも、その強靭な映像の倫理には深い共感を覚え目の奥が熱くなった。
人為の及ばない過酷な体験で大切な人と場所を失った母と子どもたちは新しい道を進もうとしている。
悲しみ、不安、決意、なんでもいい、必要以上に感傷的なことばを捨て、過酷な道を先に進もうとする場面。
ここで私なら、悲しみ、不安、決意の入り交じった子どもの顔を何とか写そうとするかも知れない。
でも、それはどうしても嘘になる。
映画は嘘だけど、ついてはいけない嘘がある。
ついてはいけない嘘をつく映画やテレビドラマを見すぎている。
もちろん作る人は嘘をつくつもりはないだろう(もともと映画は嘘のかたまりなのだから)
人生と映画とどちらが大切かといえば、人生に決まっている。
誰かの人生を理解し、その人生を都合良く解釈したつもりになる瞬間、
その危険な瞬間が映画に限らず物語にはある。
その瞬間を察知して身をよじらせ、伝えることの不安と戦うのが映画における倫理。
この映画はその倫理を忘れていない。