ジェフ・ジンバリスト監督の映画「ファベーラの丘」を東京写真美術館で見る。ファベーラとはブラジル・リオのスラム街で、その中でも特に治安の悪い地域がヴィガリオだ。貧困から麻薬取引が横行しギャング同士の抗争が日常茶飯事のこの場所に生まれたアンデルソン・サーが、音楽の力で変革を起こそうと立ち上がり、アフロレゲエという活動を始める。これは、そのアンデルソン・サーを中心にヴィガリオの町で起こった音楽による革命に迫ったドキュメンタリーだ。
憎しみの連鎖。どの紛争地帯でも使われるありきたりな言葉だが、このヴィガリオもまさにそうだ。そしてこの負の連鎖は簡単にして起こるが、それを断ち切るのは難しい。実際アンデルソン・サーも麻薬と暴力の世界に生きていたが、警察との抗争で何の落ち度もない住民が無残に殺される事件が起き、暴力とは違う解決策を探すことになる。そこで彼が見つけたのが文化の力だ。
「芸術という神聖な力が野蛮な状態を秩序あるものに変える」先進国に生きる我々が忘れかけている芸術の使命を彼は忠実に果たそうとする。彼の言葉も擦れた都会の人間にはくそまじめといっていいほど単純だ。「暴力をどうしたら止められるのか。それは文化の力だ」「音楽によって変革を起こすんだ」」(この2つ、また次の引用はどれも正確ではないです)その真摯さと情熱が心を打つ。
古典的な芸術観を持っているオレとしてはこういう言葉はとても好きなのだが、自分が使うとどこか歯の浮いたような感じがしてしまうが、彼の言葉は暴力と憎悪しか生んでこなかった土地に高揚と至福をもたらす音楽によって友情と平和に包まれた連帯という奇跡の芽を育てることに実際に成功しているので、何の恥ずかしさも衒いもない真正な響きを持っている。この映画に登場する文学者(名前は忘れてしまった)が言うようにまさしくここでは「独自の文化圏を構築することが必要」であり、それが暴力への歯止めにもなれば、生存の可能性の拡大に直結するのだ。
彼らの心の中に不正義への怒りや怨念や憎しみが渦巻いているのは変わらない。それをただ発露すれば血の復讐しかない。しかしそれを不条理や悲劇への嘆きや訴えに変え、その感情をリズムに乗せることで他者への共感を呼び起こす普遍的なメッセージとなる。
どんな紛争も、非常に概念的な言い方になってしまうが、どうやって前者から後者へと移行させるかにかかっているのだろう。下からの草の根的な芸術の勃興、そしてそれを彼らより裕福な人間が少しでも人的・金銭的協力関係を結めば、世の中ましな方向に行くんじゃないかと、普段シニカルなオレでもこの映画を観ているとそういう理想主義的な気分に駆られる。
と、ここまでいいことを書いてきたが、アフロレゲエと彼らの活動ではなく「彼らのドキュメンタリー映画」としてみるとかなり不満だ。作品の完成度を高める具体性に欠ける感は否めない。彼らの活動を通して伝わってくる芸術への信頼と希望という抽象的なメッセージは素晴らしいが、それを補完する具体的な映像が乏しいのだ。確かに彼らの状況は過酷なのだということはなんとなく想像できるが、もっと見るものに突き刺さるような映像や編集ができただろう。例えば警察や他のギャングとの抗争のシーンが出てくるが、その映像自体は大手のマスコミが流す映像より多少珍しいという程度のものだ。なぜその被害者にもっと事件のことを証言させないのか不思議に思った。もちろん言うのは辛いだろうが、それをカメラの前で証言してもいいと思わせるくらいに対象に接近すればいいのであって、おそらくそれができていると思われるのに、そういうシーンが足りない。それにアフロレゲエに加わる子どもたちの普段の生活や一人一人の性格が見えない。数人でもいいから性格や生い立ちや環境、考え方など見ている側にもっとリアルな想像を掻き立てるように焦点を当てて接してほしかった。結局「ヴィガリオに住むかわいそうな子どもたち」という大きな被害者集団としてしか描かれていない。第一証言の重要性ということでいえば、アンデルソン・サーがアフロレゲエをやる転機となった警察による虐殺と呼べるような殺害についてもあまりもに彼自身の言葉が少ないのではないだろうか。ただ「あれじゃダメだと思い音楽の方に行った」だけでなんで済ませたのか正直監督の見識を疑う。
さらにアンデルソン・サー自身に関してもどれだけ彼らに慕われているのか、あるいは普段どのような活動をしていてどれだけ人々を魅了しているのか。もう少しこっちに「確からしさ」が伝わるような映像がほしい。みんなで音楽やっている映像だけではちょっと日本のJポップアーティストがライブで客と一体になっている映像以上に純粋で豊かな関係性を描ききれていない。
「ファベーラの貧民街を復興させ人々に希望をもたらした英雄・アンデルソン・サーの物語」という枠内にすべての映像を収め、編集を施しているため、メッセージの受容性や立派さはわかるがすべて表層的な印象しかもてない。その印象をさらに強めているのが被害や治安の回復を示したデータの挿入だ。冒頭、具体的な数字は忘れたが未成年者の死亡数がパレスチナよりひどいということを示すが、無関心な人をひきつけるプロパガンダとしては役立つが映画の質としてはどうなのだろう。パレスチナを持ち出す必要はなかったと思う。さらにギャングに入った人の数がアフロレゲエの活動以後減ったという数字が出てくるが、だったら元ギャングでその後アフロレゲエに加わったメンバーにもっと多弁に語らせればいいし、ギャングが減って治安がよくなったのなら町のおばさんやおじちゃんに「アフロレゲエ以後のギャング活動はどうだった?」「なにかエピソード知っているかい?身内にそういう人いたらできるだけ詳しく話してくれないか?」とか質問すればいいのに、まあしたかもしれないが使われている映像は確か「アンデルソン・サーのおかげて治安もよくなったよ」程度の発言しかなかったと思う。結局それだけで済ましておかしくないと監督が感じるのは、アンデルソン・サーの英雄伝を補強する素材として機能すればいいというくらいにしか思っていないからではないか。
海岸や空を早回しで流す映像挿入するなら有意味な証言や表情をもっと集めて加えるべきだろう。監督は長編ドキュメンタリーがどうやら初めてなようだが、素材負けしている感が否めない。「こんなひどい惨状がある。そしてそれを克服しようとしている一人の勇敢な戦士がいる」というわかりやすい、また人々に受け入れられやすい構造を発見して喜び、それ以上の映像としての、あるいは映画全体としてのインパクトや迫真性や確からしさの追求を怠ってしまったように思う。
実際ファベーラに詳しい人のブログを拝見するとやはり事実を単純化しすぎているところがあるらしい。以下参考に。
まあ映画が発するメッセージとしては非常に感動的だし、それなりに楽しめたのだが、ドキュメンタリー映画としては雑だった。そんな感想でした。
と、ちょっと追記しておくとこの映画を見終った後「そういえば録画しておいた『RIZE』も似た感じのドキュメンタリーじゃなかったっけ?」とガーデンプレイスを歩いている途中に思ったのであくる日に見てみると思ったとおりだった。舞台はアメリカ・ロサンザルスで音楽がダンスに変わってはいるが、芸術が野蛮さを変える力となるという構図はほぼ同じだった。この2つを見て改めて日本に足りないのはこの力であり、教育に足らないのはこれだと感じた。ちなみに出来は「RIZE」の方がオレはいいと思いますが、映像の質感は「ファベーラの丘」の方がいいと思います。