2013-02-03

『故郷よ』クロスレビュー:いつの日か「地球よ」と悲しみで振り返る日が来てしまう このエントリーを含むはてなブックマーク 

ウクライナのプリピャチというチェルノブイリから3キロの隣町を舞台に、チェルノブイリ事故前後の数日間とその10年後の様子が描かれる。普通の人々の日常が事故前後からどのように続き、何も知らないままに人生を切り裂かれて行く様をドラマのかたちで綴られ、これまで観てきた他のチェルノブイリのドキュメンタリーよりも、やりきれない気分になってしまったような気がする。特に先の震災での原発事故を体験した日本人にとっては、様々なシーンが実際と重なり胸が苦しくなってしまう。

映画の冒頭、平穏な田舎町の穏やかな風景の中に、魚釣りをする村人やボート遊びをする恋人達、川面の光が輝き、豊かな自然の色彩が美しい。その一方で、住民達が強制退去させられた後に廃墟と化した10年後のプリピャチの街にも悲しい美しさがある。立入制限区域の食堂職員の娘である小さな女の子が、事故当日の花嫁だったアーニャの打ち捨てられたウェディングドレスを胸にあてて、朽ちかけた部屋で踊る姿はファンタジックでさえある。そんな廃墟の汚染はガイガーカウンターで計らなければ、雪の降る音よりも解らない。解らないまま、受け入れなければならない。今の現実の私達も、こんな風に見えない聞こえないもので一夜にして一変してしまうような、脆くて危うい可能性に満ちた世界の中で生活している。

『故郷よ』とは、他の土地で起きた出来事ではない。自分の町、また日本の中のどこかで、もしくは世界のどこかで、いつでも起こりえることのように思える。もし、今のままの世界の在り方を放置するならば、この映画のタイトル「故郷よ」の響きが、いつの日か「地球よ」と悲しみで振り返る日が来てしまうのではないかとさえ思われる。もう、これ以上、失われたものを懐かしむ日がこないことを願わずにはいられない。

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Erice Soy Ana

ゲストブロガー

Erice Soy Ana

“手のひらサイズの箱庭のような世界を作りながら、空と大地と世界を浮遊していきたいです。”