2012-08-30

『最強のふたり』クロスレビュー:邦題のほうがいい。 このエントリーを含むはてなブックマーク 

再生の映画である。

家でも車でも画でも、ぽん、と自由に買える脊髄損傷のフランス人の大金持ちが、アフリカ移民の、自分の身の回りの世話をする、昔でいうところの召使に、「それでも生きなきゃ」と背中を押されて、もういちど生きてみるという話だ。

生きられるのは、体があるうち。
体を持っている間をふつう「生きている」という。
では大きく体を損なった脊髄損傷の人は? 
彼らは、残された部分と、心で生きている。より「濃く」。

「失った部分ではなく、ある部分を見ろ」という映画でもあります。
見るべきなのは、残った彼らの体だけでなく、普通より大きく揺れる感情や感覚。
贈るべきなのは、そこを揺らす、小さな(=大きな)快感や、文字通り「いい感じ」の積み重ねなのだ。

それで私は試写を見た後、ブラシを買いました。

実は私は、家人(父)が現在、入院中で、短期的に寝たきりに近い状態になっているのですが、この映画試写を見た後、地上につくまでの間、同じビル内で、それでブラッシングすると地肌が気持ちいいという、大きめの豚毛ブラシを買っていたのです。

映画の中で、「耳がイイんだ」と車椅子の主人公が言っていたのを聞いて、風呂になかなか入れない親父の頭をくしけずろうとどうやら思ったらしいのですが、すごいと思ったのは、ブラシ購入までの間、自分に何も考えたあとがないこと。

頭では、この映画のことを考えて「ちょっとエピソードが弱いんじゃない?」とか思いながら、使い古しならうちにあふれるほどあるブラシを買う、というこの感じ。

この映画、見ている間は、結構声だして笑ったりしていましたが、全体にストーリーに緩急をつけることが見事に抑制されていて、普通の映画の「キモ」である、物語のうねりがあえて強く作られていないというか、淡々としている。クールなんです。
しかし、「残っている」。自分で見たり聞いたりした、日常の体験と同じふうに、です。

映画を見た翌日、豚毛ブラシで親父の頭を思う存分とかして、無言の「ありがと」目線をもらった後で、「昨日の映画、新しいんじゃないか??」と、あらためて気づくという。

普通の映画は、人の感情を、限られた時間で「なるべく大きく揺らそう」とする、いわゆるフィクションの王道を進もうとしますよね。
この映画は逆で、日常と地続きであることを注意深く狙っているような気がします。

だから見終わっても、いわゆる「映画鑑賞後の感動」はない。日常の中にそのまま戻って、ただ淡々と買い物をする。

フランスの名優とコメディアンを使った、ごくあっさり淡々とつくられたリアル。上品過ぎるというか、抑制しすぎというか、映画として、新しいんじゃないか、これ。もう1回確認しなければ。

いずれにせよ、見たあと、希望的な意味で、「神様なんていない。人がいるだけ」と思えます。人の事情とは関係なく、悲しみも喜びもなんでもかでも、気まぐれにやってきますからね。津波。原発事故。自動車事故。ケガ。病気。こういうものにぶちのめされた人を「守る」のは、結局同じ人間です。

そういう意味で、邦題のほうがストレートで強くていいと思う。
『最強の2人』。いいですよね。

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