ワタクシごとで恐縮だが、映画学校に通ってた学生時代「インド映画」といえばサタジット・レイの「大地のうた」に代表される、ちょっとアーティスティックな小難しい、あるいはヒューマニズムにあふれる作品という印象で、正直それほど興味を持っているわけではなかった。
ところが90年代の後半に「ラジュー、出世する」という映画を観て「お、インド映画おもしろいじゃん」と思い、続けて「ムトゥ踊るマハラジャ」で「インド映画サイコー」と目覚めて早16年(笑)。
ストーリーと関係なく意味なくイキなり始まる歌とダンス。無意味にゴージャスなセット。本編はオープンセットや田舎のロケで済ますのに、タンスシーンだけ海外ロケやゴージャスセットでお金をかける。そして何よりもスゴい人海戦術。技術がなくてもヒトがいる、お金はなくてもヒトがなんとかする、的な超チカラ押しがインド映画の醍醐味であり楽しみなのだと思っている。映画は金のかからん娯楽じゃんって言う割り切りがとても気持ちいい。
サービス精神が豊富、とは時々使われる言葉だが、インド映画はタミル語圏の作品であれヒンディ語圏の作品であれ、サービス精神が異様に豊富である。豊富、というよりも押し売りの如く「あれもこれも」と畳みかけるように観客に見せつけてくる。先の「ラジュー」も「ムトゥ」もサービス精神が豊富というか、豊富過ぎて我々ニホンジンにはオーバーフロー気味ではあるが、今回観た「ラ・ワン」も、そんなあふれるサービス精神でおなかいっぱいの作品だ。ちなみに主演は「ラジュー」ではまだ若造だったイケメン、ヒンディ語映画界のスーパースター、シャー・ルク・カーン。
この「ラ・ワン」もサービス精神は豊富。とはいうものの、以前よりは歌も踊りもちょっと控えめという印象は否めないが、それでも観てて楽しいダンスとうた。可愛くてグラマラスな女子てんこ盛りのゴージャスな画面をたっぷり楽しめる。
本編はインド映画のデフォルトで直球勝負。解りやすい勧善懲悪とヒネリもナゾも枝葉も少ないシンプルなもの。
冴えないエンジニアのシェカルがつくった格闘ゲーム「ラ・ワン」から現実化して現れたワル者「ラ・ワン」が、シェカルの息子プラティク(ゲーム名・ルシファー)との決着をつけるために、ロンドンからムンバイまでやって来る。それを助けるのが「ラ・ワン」に殺されたはずのシェカルの生き写し、正義の味方「ジー・ワン」。プラティクは「ジー・ワン」と力を合わせ、仮想世界の中で「ワ・ワン」を倒してメデタシメデタシ、なわけで、当たり前ながら「正義は必ず勝つ」という、解りきった終わり方で締められる。ドコの国でもたいていそうだが、正義は必ず勝つことになっている。いや、たぶん実際は勝ったものが「正義」になる。したがってその善悪は基本的に関係ない。宗教絡みになれば尚更で、勝ったものが「正しい義を」持っている者なのだ。
ラワンはインドではワルモノ扱いされている神様の1人だそうだ。作中でも神様ラーマがラワンを退治したことを祝うお祭り「デュシャラ」の様子が描かれ、ラワン像が炎で焼かれる画をバックに、「ラ・ワン」が「ジー・ワン」を追いかけ始めるムチャクチャかっこいいシーンがあるのだが、それでも最後に「ラ・ワン」は退治される。これはもう、キマリごと。だから観客は主人公のプラティクや「ジー・ワン」がどんなにピンチに陥っても「絶対大丈夫」って解っている。だから安心して彼らのピンチを見守るのだ。
というように、中身がもう解りきっているのに「ラ・ワン」がナゼおもしろいのかといえば、それは先にあげた溢れんばかりのサービス精神の押し売り。ダンスや踊り、あるいはハリウッド映画をはじめとする様々な映画屋音楽のパロディやパク・・・いや、模倣・・・いや、インスパイアされたシーンなどをちりばめ、さらにはタミル映画の「スーパースター」こと、ラジニカーント兄貴も先に公開された「ロボット」の役そのままでムンバイ空港に登場。意味もなく襲ってくるチンピラをこともなげに片づける。
ストーリーや伏線、役者の卓越した演技に一喜一憂する間も与えずに次から次へと繰り出されるサービス品の数々。映画界のジャパネットたかた状態で2時間半という、インド映画ではそれほど長いとは思えない時間をとても楽しく過ごすことができるあたり、やはり「ラ・ワン」は相変わらず安心のインド映画。
だいたいインド映画を観た後は「あー面白かった。さてナニ喰うかな」みたいに、後に残らないさっぱり感がとてもイイ。悩むことなく映画に没頭し、後に残らない無為な時間(笑)を楽しく過ごせる。そういう意味で、この「ラ・ワン」も、期待通りの、超正しい「娯楽」映画なのでありましたよ。是非。