2012-05-22

『私が、生きる肌』クロスレヴュー:「愛」という欲望に晒された肌 このエントリーを含むはてなブックマーク 

全編通してとにかくずっと怖かった。ひたすら落ち着かなかった。
その理由は、ただ単に出血やグロテスクなシーンが多々見受けられたという理由だけではないだろう。

「完璧な皮膚」を開発し、妻の「復元」に徹する主人公・ロベルのその行為の源である欲望を、最初は「非対称な愛」だと思った。妻の肉体、妻の皮膚を完璧に復元することで再び妻と愛し愛されたいという悲願を達成するために、動いているのだろうと。

しかし、実は「非対称な愛」などではなかった。二人の関係は「非対称」と呼ぶにはその「前提」が凡そ欠如していた。

ロベルをはじめ、登場人物はそれぞれ「愛」と認識しうる欲望を少なからず抱いている。そのせいか、それらが複雑に絡まり「愛」から連想し得るイメージとはかけ離れているかもしれない出来事が次々と起こっていく。人間関係やその欲望等、複雑で繊細なものを含蓄し錯綜しつつも、めくるめく展開で観客をぐいぐい引き込んでいく作品だった。

観終わって、「愛」とか感じられないくらいずっと怖かったって思ったけど、よく考えたら「愛」って、「愛される」って、果たしてイメージするほどいいものかしら、とふと思った。

単純に、「愛」という関係はお互いにお互いの欲望を投影し、その欲望に晒されることだろう。ロベルのように、その純粋さゆえに虚飾がなく真っ直ぐで、しかし暴力的な「他者」という欲望に晒されたとき、ベラの肌のように誰しも繊細で敏感で柔らかい、無防備な「肌」になりうるのではないだろうか。「愛」という名のもとに、そうならざるを得ないのではないだろうか。

「歓待」できるはずの「愛」という欲望は、ある時、ほんのはずみで「暴力」というベクトルに変貌しかねない。そのとき、その欲望に晒された無防備な肌は一体どうなってしまうのか。

果たして「完璧な肌」など存在し得るのだろうか。

一貫して感じていた怖れは、「愛」とされるもの、そして「愛」をはじめとする、一筋縄ではいかない≪何か≫を含蓄した、倒錯したあらゆる欲望に対するものだったのではないか。

映画館で、「愛」に対するささやかな恐怖を感じる体験が出来るかもしれなない。

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