仮説から、自分の結論を導き出したい…そんなとき膨大な資料から自分のたどりついた答えを補完してくれるフィルムや証言だけをつなぎあわせれば、あたかもそれ「だけ」が真実であるかのように見える。
ドキュメンタリーはむずかしい。もちろん、そこに切り取られた真実は真実なのだろう。けれど、真実も切り取り方によってはいろいろな形に「見える」。しかし、これは「こう読むこともできる」というひとつの推論なのだということに気がつくべきだ。女性の子育てを支援する政策がなされたことも、ピルの使用や中絶法の改正に対してより早期に着手したことも、そのこと自体は事実かもしれないが、ほんとうに直接それが性的な幸福感に繋がっていた=社会主義が優れていたと結論づけてよいものか?それを演出していいものか?
東、西にわかれたドイツ。数十年後、それぞれが異なる社会環境を維持した後にそれぞれのサンプリングを検証する。それは社会学者にとってまたとないチャンスであったろう。そこでとられた統計的な差異を多くの記録フィルムやテレビ番組などをつかいひとつの仮説を組み上げる。
コミュニストの女性のほうが性的満足を得られている理由…それは女性が自立していること。自立した女性は性的にも成熟しているといこと。専業主婦より職業婦人が社会を成熟させる…という、まあ、なんというか、女の社会進出を肯定し、働く女性の子育てを支援した社会がすばらしかった結果、女性はオルガスムスも得られる…そう、社会主義は優れていたのだよという、これはコミーのプロパガンダだ。そのことにむかって編集されたフィルムはそれが唯一事実であるかのように見えてしまうかもしれない。しかし、騙されてはいけない。性的な満足とは、感覚の問題だ。それは幸福なのかどうか…という問いとかわらないかもしれない。しかし、そもそも何をもって「足りている」と感じているのかの基準は個人で違っていて当然なのだ。ポルノ商品や過剰な性情報で頭のなかにより「幸福なSEX」を妄想してしまった人間は、ただ抱き合って眠るだけの幸福に満足できなくなるだろう。そんな方向づけは、あまりにも想像が貧困だと想わないか?ひとのSEXを妄想し、自分の家庭のなかよりも、となりのSEXがすぐれているはずだ…と妄想し続けることの怖さ。妄想のなかの自分はどんどん満たされなくなってしまう。なにかを想うことができるゆとりの時間も情報もことSEXに関しては人を幸福にしないのではないだろうか。多くの性的情報を知れば知るほど、ひとはその情報に流されて想像力たくましく自分を不幸だと想うのではないか。だから、人を幸せにするとは、社会が人をコントロールできるように自立している幻想を持たせて国家がひとをコントロールすることが望ましい…それは性教育や婚姻制度、バースコントロールも女性主体に動かしていると偽装することだ…。しかし、壁がなくなり、社会主義国家としてのさまざまな規制のなくなったいま、差異はなくなっていく…つまり、より幸福であった女性たちが、幸福感を得られなくなっていく。
あたかもそんな印象を匂わせるように、社会主義時代の終焉を惜しむかのようなエンディング…そんな洗脳に騙されてはいけない。
これが、壮大なジョークだと受けとるならとても興味深く、よくできた作品だと想う。真実の断片をつみかさねた壮大なジョーク。…そうこれはあたかも真実のふりをしたフィクションで、ファンタジー映画。社会風刺漫画のデフォルメを真実ととらえないでながめることのできる、そんなジャーナリスティックな基礎教養を要求されている映画だ。騙されるな。自分の目で確かめろ。繋ぎあわされた意図的なメッセージ性ではなく、切り取られたフィルムのむこうにあるはずのものを見てほしい。(め)
キーワード:
コメント(0)
≪前の日記