2012-03-28

映画『KOTOKO』レビュー 【ネタバレ】 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 二分法は当てはまらないんだけど、体を傷つけることで(心はよくわからなくなっているが、はっきりと)「体は」生きたいと言う。「世界はひとつ」になる。なんでか体を「傷つけ」れば「よかった」。田中を傷つけることでは足りなく?なり(わからなくても他者だから)彼に体を明け渡すが、「世界はひとつ」にな「ってしまい」田中は消える。田中は彼女の幻想の分身だったのか(大丈夫、を告げる体)。
 ……田中(体)/琴子(心)というよりは、他者の荒田をも巻き込むほどの心(の苦しみ)の大きさ。

 生と死、大人と子供(「大丈夫です」)、事実と妄想、とかの「と」部分がなく(境界が曖昧で→二分法ができなくて)、だから琴子も田中や息子に対しても自身に対するのと同じように傷つけてしまう。

 ぱっと見てまるで理解できない気がするぶん、小さい部分への共感(わたしの場合、腕がおれちゃうよといいつつも料理を止められない、自己計画のしばりとか!)が「でも」とわざわざ言い置かれることで強調される。「母の」(強さ、弱さ、美しさetc)というよりも、「琴子と私の」ってかんじ(制作者/劇中での塚本・Cocco両氏の親密さの繰り返し)。

 311語の生きる/守る困難については、実際的に肉体の安全を優先するそれ(311反応)に対し、「身をていし」「大丈夫」あるいは「大事」と(再)確認する琴子。それなのに進行がモノローグなのはなぜ?
 →事実としての肉体に対し、見え方・感じ方を表し(一時的にせよ)その状態を固定するための言葉なのかな。

 そもそも、ほんとうはどうだったのかの問いは無効(上述、はっとして琴子の血が流れ出すのを察知する田中は、琴子の都合のよい妄想なのか、とかさ)。「ほんとうか」以上に「どう見えているか」が重視される。でも、「どう見えるか」は、二重に見えるなんて特殊事態でなくたって、個人のもの。「どう見えたか」で言えば、ラスト、息子の存在は奇跡に見えたはず(少なくとも私にはそう見えた)。(90分とは思えぬ)いろいろを経てあの「良さ」かつ自分を受け継いでいる/覚えている。かつて自分は息子だけ、でなく自分の感情(「うまくでき」ない/親戚の子らと遊んでいてはっ、と息子にかまう、その自分中心性)を優先させていたのに。別れの仕草さえ!

鶴川賞とラストの折鶴、とか言いたいことはまだあるが、じわじわくる映画だった。
どのくらいじわじわかといえば、よくベネチアで見終えてすぐ立ち上がって拍手!みたく動けたなあ、くらいのじわじわだ。圧倒されるというのは本当でした。

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