1986年。原発事故が起こった
映像は事故から、12年後。
【ゾーン(30km圏内)】
と呼ばれる
その地域で生活する人、
労働する人にフォーカスしている
デスゾーン圏外で生活をしたり
労働している人の話は無い。
作品は全編モノクロで淡々と進む
話者から淡々と事実が語られ、
作品にはBGMも
ナレーションも無い。
無機質でありながらも、訥々と
語りべから発信される言葉や
白黒から感じる叙情的な風景。
そこから感じる、事象への寒気、
生活への熱気すら感じる。
それは、温度を感じた作品で
あると言い換えられるだろう。
作品自体は
長さを感じることも無く
淡々と100分の時間を刻む。
リアル過ぎるその発言に
祖父や祖母から、戦後の話を
聞いている感すら覚えた。
本作品を見終わり、
一つの連なる
キーワードが浮かんだ。
『共感と共存』
共感を言い換えるなら
『原発は危ない。
だが、全て仕方無かった』
では無いだろうか。
そこで生活する人も
知らなかったのだ。
知らされていなかったのだ。
爆発したら、
何が起こるのかも。
環境研究所で
働く女性はこう言った。
『原発事故が起こる
数ヶ月前にこのスタンドは
出来たの。
ここはいつも賑わっていて
サッカーなどもしていたわ』
危ない場所だと思う場所に
果たして
サッカー場など作るだろうか?
危ないと思っていた人達もきっと
『多分、大丈夫だろう』
『まさか爆発なんて
起こるはずがない』
などと思っていたに違いない。
作品の中で語られる
『しかし、
この場所に住むしか無い』
『100年以上は
この場所に人は住めない』
『この土地には恩恵がある』
『私の職業には誇りがあります』
『危ないとわかっていた』
『でも...』
共感することから、
潜在意識での共有へ。
常に危ない事という意識を
継続することで
【原発に依存しない】
という生活に
繋がるのでは無いだろうか。
本作品が『いのちの食べかた』の
監督作品だという事は
大変興味深い。
監督は後にこのように語っている
『原発テーマの作品を
今後撮るとしたら、
日本で作品を撮りたい』
『日本の高度な技術を今こそ
用いて、新しい解決策を
見つけることはできる』
何か発信したいと
言ってくれることは
大変有り難い。
日本は世界的にも
見本になっている。
経済破綻にせよ
原発問題にせよ。
世界的に良くも悪くも
注目されている日本。
本作品を通じ
日本人が恥じること無く、
更なる何かを模索しながら
復興し発展するカタチを
イメージしたいと思った。
【不要なモノを捨てて、
新たなモノを掴む】
それが、これからの時代に必要な
『共に創造する』といった
『共創』ということに
繋がるのでは無いだろうか。