十八日(金)
全日夜九時まで寝ていたので昨晩は完徹。十時から渋谷のアップリンクでの試写会へ。
とは言え、ウチの周囲はちょうど朝七時頃から九時頃まで強風と大雨のピークで、換気扇から聞こえる風の音は正直恐怖を覚える程。何度も窓から外を見て、風で傘をおじゃんにされそうになりながら必死に歩く人の様子を見て、これは参ったなあ…と溜息。
幸いにも実際に九時過ぎに家を出たら、雨もごく小降りになり風も確かに強いものの思った程でもなく、ちょっと拍子抜けしたくらい。勝手知ったる道をウォーキングでアップリンクへ。
観たのは、イスラエルのフォトジャーナリスト、ジブ・コーレンを追ったドキュメンタリー映画『1000の言葉よ○もーー報道写真家ジブ・コーレンーー』(監督・撮影・編集・音楽:ソロ・アビタル。出演:ジブ・コーレン他。イスラエル。二〇〇六年)。
イスラエルの新聞に載った、一九九四(五?)年のテル・アビブでの自爆「テロ」(「改革」や「民営化」同様現在の日本で最悪のイデオロギー的機能を果たしているこの言葉を本当は使いたくないのだが)直後の現場の惨状を撮影した写真で有名になった(という)ユダヤ系イスラエル人フォトジャーナリスト、ジブ・コーレンが主にパレスチナ自治区を取材する姿と、コーレンおよび彼の連れ合いや友人の何人かのフォトジャーナリストへのインタヴューで構成される。
本作は、とても美しい妻(現役モデル)と可愛い二人の子どもを持ち、職業的にも成功した、その意味では裕福で幸福なユダヤ系イスラエル人でありながらも、危険を顧みずに現場に真っ先に駆けつけてパレスチナ/イスラエルの現実を追い続けるコーレンの姿を、「フォトジャーナリストの使命」をテーマに構成されている。そのあたりは作中でコーレンが言及する、自爆「テロ」の現場が可能な限り手早く痕跡を消され、車で僅か二三分の所で人が殺されているにも関わらずカフェで談笑している人々がいるというエピソードに示されるような、とりわけ第二次インティファーダ以降激化する一方のイスラエル−パレスチナの衝突からーーただしこの点を強調しておかねばならないが、圧倒的に力の不均等な者の間の衝突からーー、国民の眼を背けさせようというイスラエル政府の意向と、悲惨な現実から眼を背け良心の声に対して耳を塞いでしまいたいというマジョリティの雰囲気に抗って、人々の眼前に危機的で悲惨な状況の実態を突き付けようとするコーレンの姿を追い続けるという「基調」からも伺い知れた。日本版のチラシに記されている、「人々はただ、知りたくないだけ」という文句にも、そのことが暗示されている。
とは言え、出演したコーレンの問題なのか監督のアビタルの問題なのか、それともその両方なのか分からないが、幾つかの点で強い違和感を感じざるを得なかった。
具体的に言うと、パレスチナ人が強いられている構造的な不正と暴力には深く立ち入らずに、イスラエル政府と軍への抗議のために、興奮して銃を振り回しながらデモ行進するパレスチナ人「武闘派」のリーダーの姿を、彼に対して自分が感じた恐怖感を証言するコーレンの声を流しながら執拗に映すシーンや、ガザ地区の入植者の強制排除と入植地の強制撤去に動員されたイスラエル兵達が、死者を出さぬよう細心の注意を払いながら、時には涙を流しつつ任務を遂行する場面をコーレンが取材するシーン(作品末尾近くで割かれた時間も長く印象的)や、第二次インティファーダの引き金を引いたシャロン前首相の「人間性」を証言するような平服の、あるいは自宅でややリラックスしたシャロンをコーレンが写すシーンに、である。
また、ジブ・コーレンがなぜイスラエル−パレスチナ間の衝突の現場を追い続けようとするのか、単にプロのフォト・ジャーナリストとしての職業的な使命感だけからではなく、コーレン自身の個人としての、あるいはユダヤ系イスラエル市民としての倫理観からも、例えば、平和運動にコミットするユダヤ系イスラエル人の多くが抱いているはずの、イスラエル建国以前にパレスチナ/イスラエルに居住していた先住パレスチナ人に対して自分達が構造的に負わされている罪の意識ないし贖罪感等からも、コーレンの活動を描ければ、もっと厚みとリアリティのある、そして考えさせるところの大きい作品になったように思う。
それと、音楽に疎いので何と言うのか分からないのだが、近未来風のバックミュージックは耳障りだったし、所々に現れるアート風の編集も目障りだった。コーレンとその家族の、如何にも先進国並みの消費生活をエンジョイしてます風のファッショナブルさにも違和感を覚えたし、制作者側に、それとのパレスチナ人や自治区との考えられない程の格差に対する批判的な視点を感じられなかったのも残念である。