2008-04-18

越境者 松田優作 このエントリーを含むはてなブックマーク 

 「ノンフィクション作家」である前妻が書いた「評伝」。

 ネット上の評判を見る限り、みなほぼ絶賛なんだけど、オレは「回想録」としてはともかく「評伝」としては欠陥品もいいところだと思った。

 なぜか? もちろんそれは、優作をもっとも身近で知るもう一人の女性である、後妻の松田美由紀に取材していないからだ。そればかりか、ほとんど触れることさえしていない。その理由について、こんなことを著者は言っている。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080203/tnr0802031133004-n2.htm

  「なぜって? 彼女はすでにいろんなことを書いているでしょう。取材してもれ以上のことが出てくるとは思えないから。彼女にも守らなければならないものがあるんですよ、きっと」

 なんだこりゃ? これが仮にも「ノンフィクション作家」と帯で銘打たれる人間の言うことか? ノンフィクション作家なら、取材してナンボでしょう。「取材してもそれ以上のことが出てくるとは思えないから」とは、とてもプロの発言とは思えない。たとえそれまでどんな言説や定説がまかり通っていても、予断や先入観は捨て、自分の目と耳と足で確認したこと以外は信じない。疑ってかかる。それがノンフィクション作家というものじゃないか。たとえ決定版的なインタビューなどが出ていても、もっと隠された真実があるんじゃないか、言えなかった、書けなかったことがあるんじゃないかと考え、美由紀夫人が「守らねばならないもの」とは何か、自分の手でそれを聞き出したい、なんとか自分の耳で確認したい、そう考えるのがプロのノンフィクション作家じゃないのか。それをハナから放棄したというなら、ノンフィクション作家を名乗る、あるいは称される資格はない。

 もちろん、「がんに侵されていた優作は、死を覚悟してハリウッド映画『ブラック・レイン』に臨んだという逸話に、私はずっと違和感を覚えていました」という疑問も立派な「定説への疑問」であり、大きなモチベーションとなりうる(それが前夫人である著者の真の執筆の動機とはとても思えないが)。そのため著者は、優作の主治医や、晩年の優作がはまっていたという新興宗教の教祖へ取材を迫り、そのやりとりを執拗に、克明に書く。だが一番肝心な美由紀夫人に話を聞くことすらせず、それどころか「彼女はすでにいろんなことを書いている」と片付け、しかもその「いろんなこと」の内容に文中で一切触れることさえしない。優作の遺族や晩年に親しかった人たちにもほとんど取材して(できて)いないのだ。だから、亡くなってわずか20年、優作本人以外はほぼ全員関係者は生存しているはずなのに、まるで歴史上の人物の晩年を文献のみで語っているような距離感ともどかしさがあるのだ。だから著者と優作の直接の関わりが薄くなった離婚後の文章は明らかにテンションも勢いも完成度も落ちる。優作の晩年の真実を描くのがそもそものモチベーションだったはずなのに。

 美由紀夫人に取材をオファーしなかった(と示唆しているように読める)というのが本当なら、要は著者は自分の夫を寝取った女への嫉妬と憎悪をいまだに引きずっていて、そのわだかまりで話を聞きたくなかったのだろう。それは、離婚の経緯を妙にあっさりと流していることからもうかがえる。それだけで「ノンフィクション」としては失格だが、もちろん、一人の人間としては十分すぎるほど理解できる。だからこの書にもそう書けばいい。それこそが著者が、たとえ一時期であっても優作ともっとも近くにいたという証拠になるからだ。そうした生々しい感情をもって人間・優作を語れる人間は、著者(と美由紀夫人)以外にいない。俳優松田優作のもっとも輝いていた時代に、もっとも身近にいた女性の証言として読むなら、これほど興味深い書はない。著者と優作が出会い、同棲を始め、結婚して夫婦生活を送っていたころの話は(いささかきれい事にまとめすぎると思ったが)面白いし、証言としても貴重だ。なら、それだけにしておけば良かったのだ。著者と優作の直接の関係性にだけフォーカスして、「私と松田優作」というような私的なエッセイあるいは回想録であるなら、問題なかった。だがこれを「ノンフィクション作家」として書いたと著者が主張するならば、それは間違いであり、「評伝」としては「欠陥品」であるとしか判断しようがないのである。

 この本、写真が1枚も使われてない。つまり、肖像権の問題で、優作本人の写真は載せられなかったんだろう(優作の肖像権を主張できるのは、もちろん美由紀夫人)。そして、美由紀夫人をはじめ遺族に繋がる人の発言も登場しない。つまり、遺族の協力が一切得られない状態で書かれた、いや書かざるをえななかったんだろう。そういう状況で書かざるを得なかった著者の苦労は察するが、同情はできない。

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小野島 大

ゲストブロガー

小野島 大

“主に音楽関係の文筆仕事をやってます。 ”