2011-06-27

『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 このエントリーを含むはてなブックマーク 

『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』が、荻野洋一氏の言うように「マトリックスよりも」魅力的なフィルムであることについて、もっと真摯に考えなければならない。
 かつて、わたしたちは「映画/シネマ」とシネマならざるものについて考えていたことがあり、或いは向こう岸に「MTV」を対置していたし、その図式がすべて崩れたとも言い難いのも確かだ。しかし、90年代に死んだ筈の映画は、現在ゾンビのように生き延びており、存在論的な「シネマ」はかつてと現在で似て異なるものになっているとしたらどうだろうか。
 JLGは、現代において「シネマ」そのものの存在論的意味を担う無二の映画作家
だが、『ソーシャリズム』と名付けられたかの映画こそは、JLGらしさそのものの放棄に留まらず、映画を「シネマ」足り得るための身体そのものを脱構築し、解体したのみならず破壊的に蹂躙し、そのことにおいて「映画の死」をなおも乗り越えんとする壮絶な「映画/シネマ」だった。

 映画が映画あらざるものの意味を付与されて「映画/シネマ」足らんとする現在、かつて「映画」の継子のようにすら見えたイギリス/POP・シネマであらんとする『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』になぜ「シネマ」の相貌を認めることができるのか。いや、ことはそう簡単なことでもなく、そうあることによってこの映画は「シネマ」に漸近していることを我々はどう捉えるべきだろうか。

 奇しくも同時代、東洋のこの国において、本国以上にアメリカ映画に対峙し続ける映画作家たる青山真治が『東京公園』を撮っている。ここでは多くに触れないが、フレームの中で踊るように出来事を語る『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』と対照的に、フレームの外部から気配/亡霊を召還せんとする、この果敢なフィルムとの対照性の中から、映画作家がいかに「アメリカ映画/シネマ」の現在を可能にしようとしているかを目にするだろう。

 ところで、先日私はかなり遅れて園子温による『愛のむきだし』をDVDによって観ることができた。ここにある80年代の残滓や、相米的な身体とアイドルによるJ-POPの変奏などが、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』について思考することと相似性があることは言うまでもないが、ともあれ、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のPOPな軽さとそこから横溢するシネマの気配という信じ難い事態について、もう少し考える(視る)必要はある。

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Taxxaka

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