バンクシーについてはもちろん、ストリートアートについても予備知識のない状態で見たほうが、より脳が揺さぶられるはず。知識ゼロの状態で臨めば、映し出される映像すべてに目をくらまされ、そして、「こうなるだろうな」と予想したことがことごとくスカされ、気付けばバンクシーの仕掛けた罠、いや、イタズラにまんまと乗せられ、“ブレインウォッシュ”されることは間違いない。
そう、この映画は、映画と、アートと、時代と、社会と、どれくらいガチで“ふざけられるか”、その心意気が試されるリトマス試験紙のような作品かもしれない。バンクシーらは、体を張って、危険と隣り合わせで、ストリートとじゃれ合っている。そんなデタラメで心意気のあるやつらが、世の中にスパイスを与えている。
主役のティエリーもそう。彼に至っては、才能があるかどうかすら怪しい。でも、ハンパない衝動に突き動かされ、悪ふざけをエスカレートしていく。芸術のためでもなく、富や名声のためでもない(もっとも、ティエリーの名誉欲はハンパなさそうだが…)、ただ「ふざけるためにふざける」。そんなジャンキーたちのピュアな衝動にほだされる…かくも贅沢な快感を味わうために、この映画は存在しているのだ。
翻って日本のストリートには、彼らのような存在はいない。強いて言えば、ブラウン管の中にいる、「たけし軍団」がそのようなものかもしれない。彼らが時に体現する「瞬間の奇跡」に遭遇するため、僕たちはストリートを、ブラウン管を見つめるのかもしれない。
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