アイスランドの首都、レイキャビクにあるさびれた港に、ホエール・ウォッチングを楽しむため、世界各国から様々な観光客が訪れる。観鯨ポイントまでの移動中、事故により船長を失ってしまった観光客一行。そこに一隻の船が救いの手を差し伸べる。しかし、その船に乗っていたのは捕鯨禁止により失業した怒れる一家であった。彼らの怒りは、船上を血の惨劇の舞台に変える……と、こうしてあらすじを書くと、70年代のスプラッター映画ブーム以降、ジェイソン、ブギーマン等、有名なホラーアイコンを他に置き換えながら、玉石混同、大量生産されたホラー映画のようだ。いや、実際『レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー(以下、RWWM)』は、B級と呼ばれるスプラッター映画にありがちな、きな臭い作品である。しかし、これがなかなか一筋縄ではいかない。
このテの作品のみどころは、劇中で殺される被害者たちの殺され方、そして、しばしばラストに訪れる怪物退治(もしくは、怪物からの逃走)の瞬間にある。こうやってかしこまって文章にすると不謹慎な物言いに見えてくるが、本当にそうなんだからしょうがない。作品ごとに様々なアイデアを尽くした殺害方法。死と隣り合わせ、緊張感に包まれた怪物との追いかけっこ。非情な怪物をついに振り切った瞬間のカタルシス。『RWWM』のタイトルの元ネタ『悪魔のいけにえ(原題:テキサス・チェーンソー・マサカー)』のラストのカタルシスといったらどうだ。多くの場合、これらの部分には作品のテーマも象徴されているのだから、この部分を観ずしてスプラッターは語れない。『RWWM』でも、この部分はしっかり堪能させてくれる。特に、船に装備された巨大なモリでの一撃は爆笑必至の名シーンだ。しかし、怪物退治の瞬間はどうか。
怪物一家の一人に何度も傷をつけられながらも必死で逃げる女が「くらいやがれ、怪物!」の叫びと共に放つ起死回生の攻撃が命中した瞬間、やってくるのはカタルシスではなく、何かモヤモヤとした感覚だ。無理もない。観客はこのセリフより前に聴いてしまっているのだ。「外人共め!ヤツらは怪物だ!」という一家のセリフを。『RWWM』では一家だけではなく、観光客たちもまた、怪物なのである。
本作の脚本家、シオン・シガードソンが「レビューに『どのキャラを支持すればいいかわからない』と書かれた」と語っているとおり、『RWWM』の登場人物たちは一貫性のない行動を繰り返す。観客たちは、愛想良く英語で返事をするのと同じ口で、他の人が理解できない言語で罵詈雑言を吐く。恋人の死の哀しみを抱え、恋人の切望したホエール・ウォッチングに一人で参加した女は、レイプの加害者よりも被害者に強く不快の眼を向ける。その顔は「あんたが誘ったんでしょ、このビッチ!」とでも言いたげだ。正義を体現した男の真摯さゆえの悪への言動は、一家の背景を知らされた観客には、何か複雑なものを残してしまう。裕木奈江演じるエンドウも、メイドとしての抑圧された生活から解放された途端、他を理解することを完全に拒否してしまう。
観光客たちのこういった行動は、その描写を含めてコメディとして見えてくる。が、監督のジュリアン・ケンプの「(本作には)ブラックユーモアがある」との言葉通り、観客がこれらに笑えば笑うほど、そのユーモアは観客自身に返ってきてしまう。極限状態の果てに訪れた愛の告白の瞬間。それにカウンターを返すように発せられる唐突な(唐突すぎる!)まさかの告白!今作でも一、二を争うほど笑えるシーンであるこのシーンは、同時に一、二を争うほど笑えない。笑えば笑うほど、告白を受けた後の女の顔(随所で登場するこの女の顔は本当に憎らしい!)から立ちのぼる批評性に観客も巻き込まれてしまうのだ。なんて厄介な映画なんだ!
この船上で行われているのは、他人を理解しようとせず、他人に理解してもらおうともしない(自分の立場が正解であると信じている)人々の果てしなき争いである。一家の残虐行為は、紛うこと無き許されざる行為だ。しかし、なぜこのような行為に至るまでになってしまったのか、一人でも顧みるものがいてもいいのではないか。それどころか観光客同士もまた、理解なくいがみ合い続ける。さらにいえば、そもそも捕鯨禁止後も行われているホエール・ウォッチングは「クジラにやさしい」といえるのか。安全圏でこのことについて話す女は、友人からのヘルプコールに対し「ヤクでもやってるの?」と一蹴し、全く聞く耳を持たない。
こうした登場人物の行動は、『悪魔のいけにえ』においても含まれている。無惨に男を殴り殺した後、レザーフェイスが突然見せる狼狽。泣き叫ぶ女を見つめるコックの矛盾をはらんだ複雑な顔。車内でのヒッチハイカーの狂行の訳がどうしても気になってしまうフランクリンは、観客に疑問を投げかける。「僕らに彼らのようにならない保証はあるのか?」と(そんな彼はあっさりと殺されてしまう。なんと皮肉なことか)。こういった一貫性のないキャラクターは確かに感情移入を邪魔するものではあるが、しかしそれゆえに、全ての主張に対しブラックで中立な視点を持つ。それは一見曖昧だが、しっかりとした誠実な主張である。『悪魔のいけにえ』も『RWWM』も、真摯な映画なのだ。
昨年日本公開された『ザ・コーヴ』は、彼らの主張が正確かどうかは別問題だが、モンド映画やスパイ映画を彷彿とさせる描写で、確かにエクスプロイテーションとしては優れていた。しかし、太地町の漁師たちをヤクザ扱いするような態度には、相手に理解してもらおうとする視点が決定的に欠けていた。その結果、両者は完全に平行線をたどってしまった。その点で『RWWM』はこの中立の視点により、クジラ問題に誠実に答えた映画になっている。捕鯨とホエール・ウォッチング、どちらかに偏るのではなく半々で支持を分けているというアイスランドだからこそ持つことができた視点といえるかもしれない。
さて、ここまで少々まじめに書いてきてしまったが、あくまでこの映画はおバカなスプラッター・コメディ映画である。この映画のキャッチコピーには『ドキッ!怪物だらけの観鯨ツアー!ポロリもあるよ!』みたいな感じがふさわしい。これから観るという人は、過剰の極みを尽くした演出に大いに気持ち悪がり、大いに笑ってほしい。そして観終わった後、映画を思い出しながら、少し自分を顧みてほしい。観鯨船上は怪物だらけだが、その誰もが等しく人間なのだから。