森のなかで道化師が空を見上げている。白塗りの顔は月光に照らしだされ恍惚としている。男は天をあおぎ何度も月に腕を差しのべる。天女への狂恋に身もだえするかのように――。ケネス・アンガー監督の短篇『ラビッツ・ムーン』は、実験映画作家というこの監督のイメージを裏切る、愛らしく、また切ない幻想映画だ。
青みを帯びたモノクロームの映像。後景の森はいかにも作りもので、たびたびインサートされる月も見るからに書き割り。台詞はいっさいない。道化師の時代がかった身振りがすべてを物語る。そこに流れるポップソングの甘い調べ。メリエス的なプリミティヴな意匠にこれが意外にマッチする。
1947年に20歳の若さで手がけた映画『花火』でアンダーグラウンド映画の旗手として名声を上げたアンガーが、パリ・シネマテークの館主アンリ・ラングロワのもとで寄食し、金策に書き散らした暴露書、それが『ハリウッド・バビロン』である。ゲイ美学と神秘主義に貫かれた彼の映画が、あくまで〈作品〉と見なされるのに対し、それは〈方便〉と見なされがちである。
なるほど『花火』や『スコピオ・ライジング』など、アンガー映画が象徴性に支えられているのに対し、ロスコー・アーバックルの強姦殺人からチャップリンの幼児性交まで絢爛たる醜聞で埋めつくされた『ハリウッド・バビロン』は徹頭して具体的、というより下世話である。だが、本当にそうか。映画作品と断絶するかに見えるアンガーの一大絵巻は同じ創造の地平を共有しているのではないか。そう述べるのが翻訳家であり映画評論家の柳下毅一郎である。
『ハリウッド・バビロン』再刊を記念して、柳下氏によるトークショーがアップリンクで催され、筆者は聞き手として参加することになったが、そこで氏は、アンガーの映画詩学が『ハリウッド・バビロン』も貫いていると主張する。ハリウッド神話の破壊を目指すかに見えるこの書は、実は神話の完成を目指している、というのだ。そのようにして読み直すとき、『ハリウッド・バビロン』は、一見露悪的でありながら、ある鞏固な美意識につらぬかれていることが分かる。『イントレランス』製作が語られる冒頭、アンガーは次のように書き始めていた。「白象――聖なる林の神が白象をほしがった」。
『ハリウッド・バビロン』はアンガーの「聖なる林の神」への狂愛に貫かれている。それは『ラビッツ・ムーン』で、月への叶わぬ恋に身を焦がす道化師の姿と通底するだろう。『ハリウッド・バビロン』におけるアンガーの最大の関心は、「破滅」である。殺人、自殺、そしてありとあらゆる中毒死。ハリウッドの歴史はまさしく死屍累々である。「映画の歴史は、ひとつの長い殉教録である」と書いたのはドゥルーズだが、しかしながらアンガーにしてみれば、ハリウッドのスターは神のために死んだのではない。彼ら自身が神であったからだ。「神自らが祭壇にその身を生け贄に捧げるごとく」破滅したのである。ドラッグも死すらも「民主的」になってしまった今日のハリウッドにおいて、真の破滅は存在しない。破滅とは神々のみ許された特権だ。
『ハリウッド・バビロン』の二巻目はレーガンへの痛烈な批判によって終わっているが、それは、アンガーにとってその抗議は政治的であるよりも美学的なものに根ざしているように思える。神々からほど遠い存在が、自らではなく、われわれ人類を「破滅」に導こうとしていることへの怒り。「破滅」の危機の直面する今日のわれわれにとって、アンガーの怒りはアクチュアルな響きを帯びる。現在、アンガーは『ハリウッド・バビロン』の第三巻を書いているらしい。