我々のような遠い極東の国に住む人間、ましてや島国であるニホンジンからすると、イスラエルという国はそれほど馴染みがあるものではない。イメージとしてなんだかキナ臭い印象、すなわち年中ドコかと揉め事というか、戦争的なことをしているイメージだったり、あるいは聖書の世界に出てくる古い街と現代が混ざったようなエキゾチックな感じ、さらに言えば何千年も国家を持てなかった人たちの集まり、それがイスラエルじゃないかとなんとなく思っていた。
サッカーに詳しい人ならご存知かもしれないが、70年代まではイスラエルという国はアジアのサッカー連盟に属していた。アジアでは敵なしのサッカー強国だったのだが、まあ、周りの国々との問題や中東戦争のおかげで、アジアサッカー連盟を追い出され、国の歴史同様いろいろさまよった挙句に、現在はヨーロッパのサッカー連盟に属している。とか言うことなどを、中途半端ながら予備知識として知ってたりするものだから、なんか「イスラエルを舞台にした映画」と聞くと妙に政治的な内容だったり、国民性の苦悩とかいろいろあったりするんじゃないかとか、そんな印象を感じたりしちゃうわけですよとにかく。
とおもいつつスクリーンを眺めた「ピンク・スバル」。その意味深なタイトルは何かの比喩か?とか勘ぐっていたら全然違うじゃん。もうタイトルまんまでしたこの映画。
超ザックリ言えば、かっぱらわれた新車のスバル・レガシイを取り戻すために奔走する、冴えないオトコとその廻りの愉快な人たちのロードムービー&シチュエーションコメディとでも言えばいいのか。
主人公のズベイルが20年間働いてやっと買った黒いスバル。それが納車翌日に盗まれたんだから嘆くのも無理はない。まあ、いつまでもメソメソしててもしょうがないってんで、いろいろ手を尽くして探し始めるわけなのだが、その探すルートがみんなバラバラ。本人も、結婚間近の妹も、妹の婚約者も、スバルディーラーの担当者も、親戚も、知り合いも、なんだかみんな別々のルートでテキトーに探してる。その緊迫感の無さが果たしてリアルなイスラエルの様子を表しているのか、あるいは映画だからこその演出なのか、それは解らないが、日本であればいちばん最初に出向くであろう「警察」がまるで出てこないのが面白い。警察信用無いんだろうかイスラエル。ネットを使ったハイテクもあんまり使わないみたいだし、なんかイスラエルって先進的なイメージがあったんだけど、やってることは超アナログ。井戸端会議の拡大版って感じだ。
そして各々がてんでバラバラに探している最中にも、クルマ盗難+こども道連れ誘拐とか、婚約者穴に落っこちとか、多々事件があるんだけどまるで緊迫感無し。クルマ泥棒と一緒にメシ喰ったり子供もなんだか危機感を感じないで電話かけてるし、日本と違う意味での「平和ボケ」っぽい感じに驚かされる。犯罪が日常になれば、人々は慣れっこになるという事なのだろうけど、ねえ。
ともあれ映画はおおかたの予想通り、各人がバラバラに探してたスバルの発見、その一点に徐々に収束して行くのだけれども、結局映画の冒頭に流れてくる日本語の「ケ・セラ・セラ」(=これは雪村いづみバージョン)のように、世の中ナンとかなるでしょ、ということなのだ。騒いだってしょうがないけど、騒ぎたけりゃ騒いですごせばいいじゃん、というコトなんだろうな。
徹底した出たトコ任せ的な人生観。もちろんイスラエルの人全てがこうではないだろうし、ましてやこれはドキュメンタリではなくフィクションだから、作り話って言えば作り話だ。でもやはり、作り話の中から見える人たちの生活や気質は、きっとイスラエルの人たちの本質を突いているんだろうとも思うわけです。まあ、世の中なるようになる、テキトーにできているのだろう。もちろんそれがハッピーかどうかは本人次第なんだろうけど、この映画ではみんながハッピーでメデタシメデタシなのでありました。結局みんないい人なんだろうな。ワルモノが1人も出てこない、幸せな映画だ。ラストに流れる谷村新司の「昴」もいいネタである。ここでくすりと笑わせてくれるのが、監督の愛情だと思う。
「ピンク・スバル」を観た後、遙か離れた中東のきな臭いイメージの国の人たちが、少しは身近になってきた気はする。なによりもあの国でそんなスバルがたくさん走ってるってのは正直驚いた。画面の中で、いまでは日本で観ることも殆どないレオーネとかレオーネのピックアップとか、まあ、新旧スバルのオンパレード。クルマ好きのひとなら思わず笑っちゃうかも。
そういえばクルマ絡みでとても気になったセリフがひとつ。「フォルクスワーゲンなら盗まれなかったのに」。イスラエルではフォルクスワーゲンよりもスバルの方がステイタスが高いんだろうか?謎だ。
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