もう二週間以上前のことですが、3月26日(土)の午後から渋谷区文化総合センター大和田へ、ドキュメンタリー映画『死んどるヒマはない——益永スミコ86歳——』(企画・製作:ビデオプレス、2010年)を観に行って来ました。
http://vpress.la.coocan.jp/masunaga2.html
益永さんの後半生の再構成を通じて、僕のようなアラフォーも含め、(比較的)若い世代にはあまり知られていない、1960年代末からの日本の社会運動の歴史をリアルに描き出す作品とでも言いましょうか。
拙宅から見て渋谷駅の「向こう側」に存る同センターは、昨年11月に出来たばかりということで、まだピカピカでした。ホームページによればプラテタリウムもあるみたい。
http://www.shibu-cul.jp/index.php
いつも通り、行きも帰りもウォーキングで。その日は日差しは春めいていたものの、風は冷たく、ダウンジャケットと内部にボアが植えてあるウインターブーツという出で立ちで家を出ました。ただし帰りは冷え込んで「ちょうどよかった」ものの、行きは思いのほか暖かく、汗だくになってしまったため、途中でダウンは脱ぎました。
当時大分県の小さな街(名前失念)で一人暮らしをしていた益永さんにご自宅でインタヴューをし、その日常生活を追いかけた後(余談ですが、元気で長生きするために、彼女は肉は食べないと言っていました)、週に何度も定期的に行っているという、大分駅近くでの署名活動の様子が映される。
その後1923年に父親のない子どもとして生まれてから、助産婦になり、戦時中大分市内の病院に勤務していたこと、戦時中の印象的なエピソード、戦後結婚し、生活苦のために愛知県に夫婦で転居したことなどが足早に触れられる。
益永さんが社会運動家としての活動を本格的にスタートさせたのは、1970年前後に当時勤務していた愛知県の病院で労働組合を結成した頃からだと言う。それ以前にも病院内でベトナム戦争関連の活動(確か募金だったような)をしていたのを上司に咎められるなど、徐々に社会問題に対する自らの関心の高まりと周囲との軋轢を自覚するようになった益永さんは、働く者の権利を護るために、自らが中心になって組合を立ち上げ、組合防衛のために結成後半年ほどは組合事務所に泊まり込んでいたとのこと。
70年前後に「プレイボーイ」だったという夫と離婚し、その後仕事を辞めて産婦人科医の娘さんの子ども達の世話をしながら、社会運動に没頭するようになっていく。具体的には1974年8月末に起きた、8人が亡くなったテロ事件(三菱重工爆破事件)の実行犯の一人として死刑判決を受けた旧姓Kさんを支援(後に益永さんはKさんと養子縁組をする)、その流れでアムネスティの死刑廃止運動にも参加、2000年代には旧教育基本法の「改正」反対運動や公教育における日の丸君が代強制反対運動を行い、現在は九条に焦点を当てた現行憲法の「改憲」反対運動を行っているという。また比較的近年、当時住んでいた北関東(群馬県?)の小さな街の地方議会選挙に出馬したこともあるとのこと。
益永さんは見た目は矍鑠とした普通のおばあちゃんだが、一旦口を開いて出てくるのは、すっかり保守化した「普通の人達」から異端視されたり、権力に睨まれたりするのを気にするあまり、過剰な自主規制に走ってしまう、多勢順応的な日本社会ではびっくりするほどラジカルな主張。一例を挙げると、当日実際に彼女は上述の三菱重工爆破事件を、軍需産業も手がける旧財閥系企業によるアジア地域への経済的な侵略に対して、青年達が良心の痛みに耐えかねて止むに止まれず行った異議申し立てであり、手段は兎も角、その意図は間違っていなかったのだと、会場で堂々と擁護していた。益永さんの主張の具体的内容にはいろいろと議論の余地はあるかもしれないが、彼女の勇気とそれを支える強い意志には無条件で賛辞を贈りたい。
余談だが益永さんの娘さんは、現在でも未だ収拾の兆しの見えない福島第一原発事故に対する政府と東電の対応に関して、国民を実験のモルモットにしているのだと痛烈に皮肉っていた。
DVDとパソコンの相性が悪かったのか、途中二度ほど5分前後上映が中断してしまったのは残念だったが、益永スミコさんご本人と作中にも登場する産婦人科医の娘さんのお話も聴け、500円の参加費の元は十分取れたという感じ。
上映とトークショーの終了後、同じフロアの区立図書館でアースシーの物語(日本版タイトル『ゲド戦記』)シリーズの『さいはての島へ』を借りて帰宅。帰りは寒かったです。