2011-04-04

3月20日(日)「変身」上映後のトーク <メイエルホリドからフォーキンへ-ロシア演劇と映画の親密な関係>上田洋子さん(早大演劇博物館助手)トークレポート このエントリーを含むはてなブックマーク 

「メイエルホリドからフォーキンへ -ロシア演劇と映画の親密な関係」
ゲスト:上田洋子さん

トークショー概略は以下。
「この映画では、役者が役者の姿のままで虫に変わるという演出の力を再確認した。実は自分は当初ロシア文学を研究していたが、フォーキンの日本公演(2000・2001年)の舞台通訳を務めたことが、専門を演劇に変更する一つのきっかけとなった。その芝居のセットは衝撃的だった。舞台の上に天井を取り外した家があって、奥と手前に舞台が、反対の壁面上部に客席が、いわばすり鉢状にある。奥が家族の住まい、手前が低くなっていてグレゴールの部屋で、観客はそれを見下ろす形になる。前後の舞台の間には紗幕があり、光を透すと中で何をやっているかわかるが、透さないときはわからない。ちょうど、部屋を覗き見しているようなつくりだ。ときにグレゴール役のライキン(コンスタンチン・~)が構造物を上って来ると、客席まで彼の顔が迫ってきて、遊園地のアトラクションのよう。小さな箱の中で、出来事を共有する芝居だった。

ダンスのように役者の動きを決定する<動きのスコア>が用意されているなかで、自由な演技をするのは至難の業だが、それをやってのけているのが「変身」の名優たちだ。抑制された演技をしている家族の前で、グロテスクな虫が演じられる。この映画のためにグレゴール役のミローノフ(エヴゲーニイ・~)は相当な身体的訓練をしただろう。二枚目から虫への表情の刻々とした変化も素晴らしい。「変身」後、ミローノフは役者としての幅が広がり、アクションなどの逞しいジャンルにも出演するようになった。決められた動きの中で、決められていない自由な演技を、緊張感を持続させて演じる。このようなことが行われるようになったのはモダニズムとアヴァンギャルドの時代、1900年代頃からだ。モスクワ芸術座の創始者スタニスラフスキー(コンスタンチン・~ 1863‐1938)が<役を生きる>、いわゆるスタニスラフスキー・システムを提唱したのは1900年代後半で、これが今のハリウッドの演技にも繋がっている。

一方、スタニスラフスキーの弟子メイエルホリド(フセヴォロド・~ 1874‐1940)はビオメハニカという俳優訓練法を提唱した。この時期にさまざまな俳優訓練法が生み出されたことには、映画がひとつのきっかけとなっている。映画はもともと無声映画だった。セリフがないのだから、言葉を使わず身体の演技でメッセージを伝えなければならない。メイエルホリドのビオメハニカ(生体機械学)は、俳優が自分の身体の動きを分析的に思考できるようになるための訓練・演技術で、ビオメハニカを習得した俳優は、身体を用いてより効率よくメッセージを伝えられるようになると考えられた。フォーキンは1980年代にメイエルホリドセンターを設立している。メイエルホリドという人はスターリンに粛清され、ソ連史から一時抹殺されたが、1950年代に復権・再評価がなされた。エイゼンシュテイン(セルゲイ・~ 1898-1948)の師にあたる人物だ。メイエルホリドの手法を現代に活かしているのがフォーキンである。

フォーキンは1970年ごろにプロの世界に入っている。演劇活動のなかで、自分の作品のテレビ化も行っている。テレビ演劇は、スクリーンより更に小さな枠の中に収めなければならず、「変身」舞台版の小さな空間のヒントになっただろうし、その経験は映画化にも活かされているだろう。映画ではクローズアップが多用されて、グレゴール本人、母親、妹など、視点の変化が強調されるなど、<映画的な>工夫がなされていると思う」。

この後、来日公演でフォーキンの通訳を務め、この日は映画「変身」を見るために来場していた中川エレーナさんを交えて、当時の公演の出来事を伺いました。静岡での公演時では400席の会場だったので、主催者は全席分のチケットを販売してしまったが、芝居のセットは、観客も入り込む形式だったので、60人ほどしか入れず、それを逆手に取り、ビデオを使って、400人全員が鑑賞できるようにした。それがかえって効果的だったなど、フォーキンの才能の片鱗を伺わせるエピソードでした。

上田洋子
うえだ ようこ ロシア演劇研究者 早大演劇博物館助手(4月以後は早大非常勤講師、演劇博物館招聘研究員)。4月13日まで同博物館にて開催中の「コレクションに見るロシア演劇のモダニズムとアヴァンギャルド」展を企画・担当。

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パンドラ

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